アリスの森

ハローハロー  聞こえますか?

 近年、我が国における国際交流が盛んになってきたとはいえ、やはりその姿は目立っていた。
 柔らかな金の髪や紫水晶のような瞳が、というだけではなく。
 単純に言ってしまえば、彼女の美貌に見惚れている者が多い、というわけだ。
 しかも、その隣に金髪の美丈夫を連れているとなれば、見るなと言う方が無理なこと。
 普段なら名前どころか その存在さえ忘れられがちなの青年も、彼女といる時は自然とその存在を見失われることがなかった。
 少女の買ったものであろう高級ブランドの荷物を持つ青年と、彼の左腕に右手を添えて上品に寄り添う少女。――まるで映画フィルムの一コマを見ているような感じであるが、間もなく現実味を帯びたものになる。


「あら、菊!」


 ガラス越しに日本の姿を認めたの唇が、彼の名を刻んでいた。





 都内某所のそれなりに格式のあるホテルで、昼食会を兼ねた接待を受けた後のこと。
 ホテルのロビーから会釈をすると、いつものようには花の綻ぶような笑みを湛える。そして、日本の周囲に立つ数人に視線を向けた。
 相変わらずの笑みだが、その裏では彼らがどのような地位にいる人間なのかを見定めているに違いない。彼女がただ麗しいだけの少女でないことは、日本も承知していた。
 日本は振り返ると、彼らに労いの言葉をかけて下がらせる。上司から本日の仕事の補佐として就けられた者達なので、用が済めば一緒にいることもない。
 エントランスで少女達とすれ違い様に、彼らのひとりが会釈をするのが見えた。


「菊」
 傍らの青年の腕を離れたが、外見に違わぬ美声でもって日本の名を呼ぶ。
「お久し振りです、さん……と、カナダさん」
「日本さん、お久し振りです」
「こんにちは、菊。お仕事?」
「ちょうど終わったところです。今日はお二人でお越しですか? イギリスさんかアメリカさんはご一緒では?」
「……あの二人はいいのよ」
 にっこりと笑うの様子に日本は、おや、と思う。カナダを見やれば、彼も苦笑に近い笑みを浮かべていた。
「お二人のお時間が宜しければ、お茶でもご一緒にいかがですか?」
 気付かぬ素振りで別の話題に興じるか、少女の愚痴でも聞いてみるか。どちらがの気晴らしになるかと考えながら、日本は少し離れたところにある紅茶専門店へと誘った。





「そういえば、もうすぐハロウィンですね」
 日本が去年の今頃を思い出してそう言うと、は「そうね」と素っ気なく返してティーカップに口をつける。
 どうやら、いきなり核心を突いてしまったようだ。
「イギリスさんがハロウィーンの準備に掛かりっきりだから、さん拗ねてるんですよ」
「マシュー、余計なことは言わなくていいのよ」
 バツの悪そうなの表情から不機嫌な様子はない。カナダの言うとおり単純に拗ねているだけのようで、カナダも「すみません」と笑いながら詫びている。
 の可愛らしい一面に日本が微笑ましく思っていると、ややしてからが、
「……小さな子どもみたいだって呆れた?」
 と、かそけき声で問うた。
 日本が黒い瞳で見返す。
 は上目使いで日本の様子を窺っている。
「っ――」
 思わず出てしまった笑い。声はこらえることができたが肩が震えている自覚があるので、少女にはばれているかもしれない。
「なっ……どうして笑うの!?」
 案の定、は驚いたとばかりに顔を上げた。瞠った双眸に紫水晶が輝く。
「申し訳ありません。ただ、なんと申しますか――そういう反応は意外だったもので」
「……菊に会ったのは誤算だったわ。こんな情けないところ、見せるつもりなかったのよ」
「そんなことないですよ。意外ではありましたが、大変 可愛らしいと思います」
「いいのよ、面倒な女だって自覚はあるわ」
 私、わがままなのよ。――少し顔を赤くした少女が、一口 紅茶を飲んで溜息をついた。

「自分が放っておいてほしい時は、誰とも顔をあわせないでひとりでいたいし。自分が構ってほしい時は、片時も離れず一緒にいたいの。アーサーと一緒にいたい時はアーサーが相手じゃなければ意味がないし、フランシスのお菓子が食べたい時はフランシスでなければ嫌。菊とお話したい時も、マシューに会いたい時も、アルフレッドと遊びたい時も、他の誰かでは満足できないのよ。……ね? とんでもない駄々っ子でしょう?」

 手持ち無沙汰にティーカップを弄りながら、は告白する。暫しの沈黙が落ちた。
「あーもうっ。やっぱり、今 話したことは忘れて頂戴。菊にはこんな子どもっぽくてわがままな私を見せたくなかったのよ!」
「おや、なにやら距離を感じてしまいますね。ひょっとして、そんなことで私がさんを嫌うなどとお考えですか?」
 そうであれば、きちんと考えを改めてもらわなければ。
 穏やかで落ち着いた雰囲気を持つこの少女の新たな一面は、日本にとって好ましい発見である。もちろん、度が過ぎたわがままは問題かもしれないが、100年以上続く長い付き合いの中で彼女がそのような態度を見せたことは一度としてなかった。つまりは、きちんと弁えているということだ。
 しかし、日本の言葉を聞いたはカップをソーサーに戻すと、先程まで見せていた少女らしい姿とは一変、凛とした眼差しで日本を見つめた。
「あら、それは誤解だわ。私は菊に『嫌われないように』子どもみたいな自分を見せたくないわけじゃないのよ」
 胸元に右手を添えて、ルージュをひいた唇が弧を描く。


「『もっと好きになってもらえるように』、素敵なレディでいたいの。おわかりかしら?」


 なるほど。
さんは今でも充分に、素敵な女性だと思いますよ」
「ありがとう、嬉しいわ」
 満面の笑みを向けられれば、心の底からそう思っているのが伝わってくる。
「ですが、今 さんが本当に会いたい方は、私ではなくイギリスさんなんですよね?」
「……そうよ。私よりもアルフレッドを優先している、あのどうしようもない人なのよ」
 口では「どうしようもない」などと言いながら、その声音には諦めと優しさが含まれている。やはり道理を弁えている少女の人となりは、日本にとって好ましいものであった。

 ―――イギリスさんには今度お会いした時にでも、老婆心ながら忠告させていただきますか。

 日本にとって、澄んだ紫水晶の瞳を持つこの少女は、とても大切な友人のひとりである。
 その少女がこんな風にちいさなわがままを言うのなら、叶えてあげたいではないか。


 そんなことを日本が思っていると、不意にスマホがちいさく着信を知らせた。
 聞き覚えのない着信音は、物静かに座っていたカナダのもの。
 普段はおっとりとしているカナダにしては珍しく機敏な動作で胸元からスマホを取り出すと、ちらりと液晶を確認してから、その液晶をの方へと向けてみせた。
 おそらく相手の名が表示されているのだろう。はスマホを受け取ると、中座の謝罪を入れて店の奥にある通話エリアまで足早に向かっていった。





「イギリスさんからですよ」
 その声にを追っていた視線をカナダへと転じる。
 よく似た声なのに話し方や雰囲気の違いで、これほどまでにアメリカと違って聞こえるのだろうか。
「いつもなら出掛ける時はメモくらい残してくるのに、今回は黙って出てきたから、イギリスさんもさすがに心配したんでしょうね」
「それはさぞかし心配されたでしょうね」
 しかし、まぁ――いい薬かもしれない。
「でも何故、さんのスマホではなくカナダさんの方に?」
さん、スマホの電源切ってあるんですよ」
 ふふっと相好を崩すカナダは、やはりアメリカとは違う印象を与える。
「でも、素直に電話に出るってことは、やっぱり拗ねてるだけなんだと思います。本当に怒ってる時は絶対に出ませんから。――あっ、」
 日本さんにこんな話したって、さんには内緒にしててください。
 声をひそめてカナダが言うので、日本はゆっくりと頷いた。
さんの機嫌が直ったのは、日本さんのおかげかもしれません。日本さんは人を穏やかにする雰囲気がありますから」
「それはそれは……光栄ですね」





 愛しい薔薇姫の機嫌をとるために、電話の向こうではの英国紳士がさぞや苦労していることだろう。


 最初はなんでもない顔でスマホからの声に耳を傾けていた少女の唇が、次第に柔らかく笑みを刻む。
 そんな様子を遠目に見ていると、こちらに視線を向けたと目が合った。
 日本がにこりと微笑めば、もふわりと笑みを返したのだった。

(『散文御題』 Title by 黎明アリア)