アリスの森

以前はこんな顔しなかった

「ただいま」
「おにいちゃん、お帰りなさーい」
「一兄、遅かったね」
 帰宅した一護がリビングに顔をだせば、妹達の元気な声と甘い匂いが一護を出迎えた。
 夕食の片付けの済んだキッチンでは、遊子がメロンに包丁を入れたところで、均等に分けられた果実からは瑞々しい芳香が漂っている。
 ちゃんが持ってきてくれたんだよ。――遊子の告げた名に、さらに甘い果実の芳香を感じた。





 かちゃ、とちいさく鳴ったノブの音に、一護は無意識に眉を顰めた。
 別に自分の部屋なのだから気を使う必要はないと思い直しドアを開ければ、灯りのつけられていない部屋はしんと静まり返っている。
?」
 いるはずの少女の名を呼ぶが返事はない。
 ドアを閉めると廊下からの灯りが閉ざされ、部屋に差し込む光は開け放たれた窓からの月明かりのみになった。
 思わずついた自分のため息。床におろした鞄。テーブルに置いた盆。どれも些細な音だが、この空間では随分と響いているような気がする。
 やけに気にする一護とは逆に、ベッドに横たわる少女は身じろぎもせずに寝入っていた。
 一ヶ月ぶりに見る幼馴染の少女は、幼い頃と変わらずに黒崎家へ遊びに来ると一護のベッドを占領して、惰眠を貪っている。
「少しは男の部屋だって警戒しろよ」
 ベッドに背を預けて座ると、一護が独りごちた。


 その時、きしり、とベッドが鳴った。
 一護が振り返ると、目を擦りながら体を起こすの姿。
「―――いちごぉ」
 子どものように甘えて名を呼ぶ仕草に、一護は「なんだ?」と返事をする。

 ―――ホントにガキの頃と変わんねーな。

 寝起きのはいつも、喉が渇いたとか お腹が空いたとか、そんなことを言って一護に世話を焼かせていた。
「のど渇いた」
 案の定もたらされた言葉に一護は呆れたように笑って、盆に乗せてきたコップを少女へと差し出す。はそれを受け取ると、こくこくと喉を鳴らして飲み干した。
 わずかに仰向いた時に晒されたの白い喉が、やけに目につく。
 一方の少女はというと、一護の思惑など気付かない様子で空のコップを差し出した。そして、いつまでも受け取らない一護を不思議に思ったのか、ことりと首を傾げる。
「一護?」
「ああ」
 少女の声に慌ててコップを受け取る。
「なんだか甘い匂いがする」
「オマエが持ってきたメロンだ。食べるだろ?」
「食べる」
 ベッドの縁までにじり寄ったに、一護はメロンの乗った皿とスプーンを差し出すが――。
「食べさせて」
 月明かりを背に にっこりと笑う幼馴染の少女に、一護は言葉を失った。
「……子どもじゃねーんだから、自分で食えよ」
「いいから。ねぇ、早く」
 相変わらず人の話を聞かない少女は、あーん、と口を開いた。
 しばらく無言の攻防が繰り広げられたが、結局はに甘い一護が折れるしかないのだ。
「ほら」
 しぶしぶといった態で一護はメロンをすくうと、の口元に運ぶ。それを食べるを見て、鳥の餌付けみたいだ、と頭の片隅を過ぎった。
「ねぇ、たっちゃんは元気?」
「ああ。いつ電話してもオマエが出ないって怒ってたぞ」
「うん、そういえば着信残ってたみたい」
「みたい、ってオマエなぁ」
 呆れたように言って、一護はメロンにスプーンを入れた。甘い匂いがさらに強くなる。
 が当然のように口を開ける。
 ちらりと覗いた赤い舌に、部屋が薄暗くて良かったかもしれない、と一護は思う。
 この状況は目に毒だ。
 彼女の仕草がやけに色めいて見えたのは、これが初めてではなかった。男のバカな妄想だと自嘲してきたが、今宵ばかりは押さえられないかもしれない。
 はぁ、と大きく息をつくと、が「一護?」と不思議そうに名を呼ぶ。
「なんでもない。……ほら」
 最後の一すくいを差し出す。
 柔らかい果実を口に含みゆっくりと嚥下すると、の赤い舌がぺろり、とくちびるを舐めた。





 雲の流れに遮られて ちらちらと陰る月光を視界の端に映して、一護がとの距離を縮めるとベッドのスプリングがちいさく鳴った。
 緩やかに明暗を繰り返す月明かりは、まるで警告のようだ。
 なにも知らない少女は、いつもと変わらない顔で一護を見上げている。
 オレンジ色が好きだと言った幼馴染の少女は、それと同じ一護の髪がお気に入りだ。近い距離にある一護の髪に触れようと手を伸ばすが、逆にその華奢な手を捕らえた。
「いち……」
「オマエさ、いくら幼馴染だからって警戒心なさ過ぎだろ」
「……警戒なんてしてないもの」
「そういうのが誘ってるって、男を勘違いさせてるんだよ」
 呆れを含んだ声は、己に対してか 少女に対してか。
 カッコ悪いという自覚はあった。少女に非がないとは言い切れないが、自分の言いがかりだというのもわかっている。せめてもの救いが、声を荒げずにすんでいることだ。


 ふいに繰り返されていた明滅が収まり、ふわりと甘い匂いが唇に触れた。
 月明かりの下、目を瞠る一護の間近で、先程まで触れ合っていた唇が笑みを刻んでいる。
「それが勘違いじゃないって言ったら、一護はどうする?」


 拘束の緩んだ手から、の手がするりと逃げる。そして、彼女が好きだと言ったその髪へと、もう一度手を伸ばした。
 一護の毛先で遊ぶの顔を見つめたまま、未だ動けない幼馴染の少年にくすくすと笑う。
「勘違いじゃ――」
「ないよ」
「アレは誘って――」
「たんだよ」
「なんで、そんなこと――」
「それくらい自分で考えてよ」
 それとも、主導権放棄?――見慣れた顔が、見慣れない表情を浮かべる。
 素知らぬ顔で一護を翻弄していた少女の蠱惑的な笑みに眩暈がするが、とりあえず。

 名を呼べば、一護の髪を弄っていた手が首に回される。
 触れるぎりぎりまでその瞳を閉じない少女の長い睫毛を見つめて、一護は甘い匂いの残る少女の唇へとキスを落とした。

(『幼馴染みの恋物語』 Title by 恋したくなるお題)