『』と掲げられた表札の横にある白いインターフォンを、いつものように軽く押した。
背伸びをしなければ届かなかった これに、手が届くようになったのは いつのことだっただろう。そんなことを ぼんやりと考えて押したのだが、常なら聞こえる呼び鈴の音はしなかった。
あれ?と思い、もう一度 押そうとしたその時だ。
「一護? どうしたの?」
頭上から かけられた少女の声。
二階の窓が開けられ、幼馴染の少女が窓枠から身を乗り出して一護を見下ろす。
一か月ぶりに見る幼馴染に目を細めたのは、冬の陽射しが眩しかったからだ、と思う。
「久し振りだね。元気だった?」
素足で廊下を歩くの足元を眺めながら、一護は「あぁ、」と曖昧に返事をした。
一護には、彼が来るといつもそうするように赤いスリッパを履かせたくせに、自分はこの冷たい廊下を素足で歩いている。
「」
「なに?」
「オマエ、スリッパは?」
彼女が好きだというオレンジ色のスリッパがあったはずだ。
は振り向きもせずに、あーうん、と呟いた後、「何処に置いてきたっけかなぁ?」と笑った。
大方、自分の部屋かトイレの前、それか台所あたりだろう。スリッパを履いていても、すぐに何処かへ忘れてくるのは昔から変わらない。
頼りないわけではないが何処か目の離せない、そんな幼馴染に一護がため息をつくことも珍しくなかった。
「一護」
階段の前でようやくは振り返った。
「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「どっちでも」
「そう? じゃあ、今日は紅茶ね」
部屋で待ってて。そう言って台所へと向かう少女の背を見送って、一護は階段を上る。
今更 案内されずとも、幼馴染の部屋の場所はわかっていた。
白いドアの前に立って金色のノブを回すと、当然のことだがドアは開いた。
「相変わらず、素っ気ない部屋だな」
白い壁紙、白いカーテン、白いラグマット。壁際に置かれた机とチェストも、白。
極端に物の少ないの部屋は、白ばかりで些か目に痛い。
白で統一しているわけではないのは知っていた。
数年前、この部屋を見て呆れた一護に対して、「適当に選んだらこうなった」とは言っていた。あまり物に頓着しない性質の少女なので、本当に適当に選んだのだろう。
この部屋で白以外の色といえば、わずかに覗くフローリングのメイプル。白いベッドに掛けられたアクアグリーンのシーツと、その傍らに置き去りにされたオレンジ色のスリッパ。
それから――
「なんだ、これ?」
目覚まし時計すらないこの部屋で、チェストの上に置かれたその小瓶はとても目についた。
好奇心から、一護はその小瓶を手に取る。
蓋に細工の入ったその硝子瓶は、まるで古い外国映画に出てくる香水の瓶みたいだ、と思った。
中には青とも紫とも見える液体が並々と注がれている。
「綺麗でしょ」
不意に掛けられた声に振り返れば、が自慢げに目を細めている。
は持っていたトレイを白いラグマットに置くと、誰が見てもそうとわかるほど機嫌良く一護の隣へとやってきた。
「オマエの部屋に物が置いてあるなんて珍しいな」
「綺麗でしょう?」
はもう一度繰り返す。
「ああ。でも、らしくない色だな」
一護が明るい紫色の液体に視線を落とすと、は「そうかな?」と首を傾げて、一護の手元からその小瓶を取り上げた。
「ヘリオトロープ」
が小瓶を見つめたまま、ちいさく呟く。
その単語が理解できずに二度三度 瞬きをした一護に気付いたのか、頭ひとつ分高い彼の顔を見上げて、殊更ゆっくり「ヘ リ オ ト ロ ー プ、だよ」と繰り返した。
「ヘリオトロープ」
「そう」
「これ、何に使うんだ?」
「一護はなんだと思う?」
「……毒……と、か?」
「うん。一護がどういう風に私のことを見てるか、よくわかった」
未だ にこにこと上機嫌に笑う幼馴染の少女に、一護は「本気にすんなよ」と呟くように言ってため息をついた。
「で? なんなんだよ」
「媚薬だよ」
「は?」
「ビ、ヤ、ク」
「…………」
思わず黙ってしまった少年に非はないだろう。おそらく。
そんな一護を気にも留めず、は「漢字で書くと、こうだよ」などと言って、彼の胸元に爪の伸びた人差指で『媚薬』と書いてみせた。
彼女なりの冗談なのか。二桁の付き合いとはいえ、たまに計り知れない時があるのが、この少女だ。
「……媚薬、って、惚れ薬とかか?」
「んー、そうねぇ。もうちょっと直接的な?」
「直接的?」
「そう。直接的」
―――媚薬、びやく……惚れ薬より直接的、というと……。
一護の脳裏にその単語が閃いた次の瞬間、が猫のように目を細めた。まるで、一護の思考を読み取ったかのように。
の手元でころり、と小瓶が回転すると、それに合わせて紫の液体も揺れる。
「正 解」
「……本物じゃないだろ」
「どうして?」
どうして、と問い返されても。
一護は少女の手の中で揺れる紫を、ちらりと盗み見た。
『媚薬』なんて もちろん見たことはないが、こんな色のイメージではない気がする。というか、ただの女子高生がそう易々と手にできる代物ではないだろう――と思う。
つい真面目にそんなことを考えてしまった一護に対して、はやはり機嫌良く笑い、『ヘリオトロープ』を彼の目の前で振ってみせる。
そして、こう言った。
「試してみれば、わかるんじゃない?」
言うが早いか一護の首筋に、それを吹きかける。
パシュ、という軽い音と共に、甘い香りが辺りに満ちた。
顔には かからなかったとはいえ、これだけの近距離で吹きつけられたのだ。思いがけない、甘く濃い香りに一護は眉を寄せる。
こんな香りなら『媚薬』として納得するかもしれない。しかし、この香りには覚えがあった。
「香、水――」
記憶に残るこの香りは、幼馴染の少女がたまにさせているもの。
そう、まさに今、一護の目の前で、悪戯が成功したとばかりに笑っている少女だ。
―――つーか、最初に思ったじゃねーか。香水の瓶みたいだって。
また、だ。いつもこうやって、のペースにのせられて自分は翻弄されている。
一護は無意識に詰めていた息を吐き出して、己の髪をくしゃりと掻いた。
「だから、ヘリオトロープって言ったでしょ。別名『匂い紫』」
「香水の名前かよ」
「正確には、花の名前」
色の名前でもあるんだけどね。
そう言っては、硝子細工の蓋をして香水瓶を白いチェストへと戻した。
「ねぇ、」
すっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干せば、がティーポットを傾けて紅茶を注いでくれる。
「もし、あれが本物だったら一護はどうした?」
の問い掛けになんと答えればいいのかわからず、結局 一護は注がれた紅茶を飲み干すことで、彼女への返答を有耶無耶にしてしまった。
ヘリオトロープの戯れ
(『ダマスク模様の壁紙』 Material by NEO HIMEISM)