抱きしめる腕には爪を立て
「この人でなしっ」
女性の金切り声と頬を打つ音が響いて、吉良 イヅルは眉を顰めた。
「自分だけ助かれば どうでもいいんでしょ。席官のくせに、何であの人を助けてくれなかったのよ。他の人は助けて、何であの人は見殺しにしたのよ」
人気のない六番隊舎の廊下に、尚も金切り声が響く。
吉良の視線は声を荒げる女性隊員ではなく、その向かいに静かに立つ女性に向けられていた。
先程 頬を打たれたにも拘らず表情も変えず、何事もなかったかのように凛とした佇まいで其処にいる。
柔らかな黒髪を緩く結い上げ、椿の簪を挿しているその女性は六番隊 五席―― であった。
「彼が亡くなったのは自業自得でしょう。命令違反を犯して班の連携を乱し、そのせいで他の隊員を危険に晒したのですから」
淡々と告げるの言葉は、先週あった現世での虚討伐のことだろう。
五席のを筆頭に、五人の六番隊士が現世へ赴いた。現世へ着いた直後、目当ての虚が現れ戦闘となったが、ある隊士が命令違反を犯して無茶をした。なんとか虚を昇華できたが、ふたりが殉職、を含め三人が重症で帰還したと聞いている。
「任務に命を懸けるのは当然でしょう! 彼のせいだなんて責任転嫁だわ」
を責めたてる女性は、例の隊員の親しい人物か。
―――気持ちはわからなくはないが、言っていることが支離滅裂だな。
さて如何しようかと吉良が考えていると、の声が荒々しい空気を静かに切り捨てた。
「任務に命を懸けるのが当然だと言うのなら、彼の死も当然だということで理解したらどうですか」
再度 振り上げられた手は、しかし今度はへと届くことはなく。
「一度だけは甘んじて受けましたが、二度目を受ける気はありません」
は押さえた手を軽く払い落とすと、感情のこもらない目で女性を見つめた。
「今回の件を朽木隊長に直訴されるなら、どうぞご自由に」
そう言ってはくるりと背を向けると、自分に宛がわれた執務室へと歩いていってしまった。
こん、こんっ。
扉を叩く音が訪問者を知らせるが、室内からの応えはなかった。
不在である筈がない。証拠に、中からはこの部屋の主の霊圧がしている。
資料室の隣にあるこの部屋は、六番隊の隊長自らが許可をだしての執務室となっていた。
「くん、借りていた資料を返しに来たよ」
今度は声をかけるがやはり反応はない。
こん、こんっ。
「くん――入るよ」
少しの間を空けて吉良が扉を開いた。
その途端。
ひゅん、と風の鳴る音がし、一冊の厚い本が吉良めがけて飛んできた。
「……相変わらずだなぁ」
飛んでくる本を予想していたように、吉良が難なく受け止めた。いや、予想していたのだ。
「本を投げたりして、危ないよ――」
にこりと微笑んだ吉良に対して、はその美しい面を不機嫌に染めて窓辺に立っていた。
「氷の椿姫」なんて誰が名付けたのか。朽木 白哉にすら認められている沈着冷静ぶりは何処にもなく、不機嫌そのままの瞳を吉良に向ける。
そんな眼差しにも臆することなく吉良は歩み寄ると、彼女の傍らにある机に、投げつけられた本と、借りていた資料を重ねて置いた。
「―――あの男の愚かさを人のせいにしないで欲しいわ」
の言葉を受け止めて、吉良は困ったように笑う。
「自分の身が大事かって、当たり前じゃない。しなくてもいい損失なんて、無意味どころじゃないわよ。ばっかじゃないの」
背を向けている吉良に構うことなく、は心情を吐露する。
「巻き添えくって ひとり死んだのよ。生きてさえいれば、どんなに怪我が酷くたって助けられたのに」
「……ふたりが亡くなったのはのせいじゃないよ」
再びの前に戻ってきた吉良は、手にした手拭いをの頬に当てようとした。
僅かに後ろへ下がってがそれを避けたので、吉良はちいさく ため息をつく。
「」
「助けられなかったのよ」
「いつでも、全てを助けようなんて無理だよ」
ぐっと黙ったを見つめていると、の右手が振り上げられた。直後に響く頬を打つ音。
「……なんで避けないのよ」
「君と同じ理由だよ」
避けようと思えば、避けるのは容易い。敢えて受けたのは、それでの気が晴れるならと思ったからだ。
不機嫌な瞳に後悔の色を宿す、彼女の気が少しでも晴れるなら。
振り上げられた右手も、不機嫌な態度も、今までの言葉も、全て怒りによるものではなかった。
仲間を助けられなかったことへの後悔。
吉良を見上げる、泣き出しそうな瞳。でも強情な彼女はまだ泣かないのだろう。
「、お願いだから ちゃんと冷やして」
「要らないわ」
「君が要らなくても、僕が心配なんだよ」
の頬に手を添える。また噛みつかれるかとも思ったが、今度はおとなしく されるがままでいた。
「任務に命を懸けるなんて馬鹿らしいわ」
ぽつり、と呟きが落ちた。
「私は、助けたかったのよ」
「……そうだね」
知ってるよ。
吉良の言葉に、の瞳から涙がこぼれた。
静かに涙を流すを抱き寄せて、その瞳に唇を落とす。
は吉良の胸に手をついて そっと押し返したが、吉良に離す気がないと悟って諦めたのか。
華奢な手で袖を握られた感触に、このまま接吻けを落としてしまおうか、と吉良は考えていた。
(『マイ・スウィート・キャット』 Title by 恋花)