いつか『世界』に還すまで 2
「この時計が止まりはしないか。それだけが心配なんだよ」
そう言った夢魔の顔は――。
不敵な笑みを浮かべているような、
何かを悔いているような、
そんな、曖昧さの残る表情をしていた。
「呆れて物が言えませんよ」
落ち着いた声音でナイトメアを諌めるのは、彼の腹心であるグレイだ。
落ち着いた、とは言っても実際のところ かなり腹を立てていることは、読心の能力のないアリスにもわかっていた。
アリスにもわかるのだから、この他人の心が読める《夢魔》には嫌というほど伝わっているだろう。
案の定、苦虫を噛み潰したような顔でグレイの小言を聞いているが、逃げ出さないとは感心なことだ。
子どもじみた言い訳をするナイトメアにしては、珍しく殊勝な態度ではある。
もっとも、逃げられるわけがないのだ。その胸元には、彼の大切な妹が眠っているのだから。
「グレイ、気持ちはわかるけど、一先ずをベッドに寝かせてあげた方がいいんじゃないかしら」
アリスの言葉に、ふたりの視線は件の少女に向けられた。
「俺が連れて行きますので、ナイトメア様は残りの書類を片付けておいてください」
慣れた様子で少女を抱き上げたグレイに、ナイトメアが意地悪く笑って聞いた。
「誰のベッドに連れて行くつもりだ」
「貴方の許可が下りるのでしたら、俺のベッドに連れていっても構いませんが」
扉の閉まる音を聞いて、
「あんたって、本当にバカね」
アリスの容赦ない一言が、止めを刺した。
「で、なにをしてたのよ」
渋々書類に向かい始めたナイトメアを監視しながら、アリスが問う。
「なにを、とは?」
「まさか本当に、妹に手を出そうとしてたわけじゃないでしょう」
「私の時計の音を聞いていただけだよ」
「時計の音? この世界では、別に珍しいものじゃないでしょう?」
誰の体にも時計が埋まっている。この世界で時計を持っていないのは、アリスくらいのものだ。
そう言うと、ナイトメアは曖昧に笑った。
「なによ?」
「いや」
ナイトメアの含みのある態度に、アリスがムッとする。なんだかバカにされた気分だ。
「別にバカになどしていないよ」
「勝手に心を読まないで」
「―――時計が止まりはしないか、確認していただけなんだよ」
話している間に机上の書類の確認とサインが済んだようで、ナイトメアが書類の束を差し出した。
アリスが受け取り、他の書類を渡すと、ナイトメアは「まだあるのか」とうんざりした顔を見せた。
「時計が止まるって……」
「端的に言えば、私が死なないか心配している、ということだ」
「あんた、死にそうなの?」
「今のところ死ぬ予定はないが、この体調だし、この世界だからね。いつ死んでも不思議はないだろう?」
「あんた達って、簡単に生死を語るわよね」
アリスには理解しがたい、この世界のルールだ。
ナイトメアが死んでも、この時計がある限り替わりはいる。
「でもそれは、あんた自身じゃないんでしょ」
「もそう思っているから、確かめるんだ」
ああ。また、あの曖昧な笑みだ。
「この時計が止まりはしないか。それだけが心配なんだよ」
アリスは、黙ってナイトメアを見下ろしていた。
腕の中の少女をそっとベッドにおろすと、の瞼がわずかに震えた。
寝かしつけようと頭を撫でてみたが、そのアクアマリンの瞳はうっすらと開けられてしまう。
窓の外では不規則な時間帯が、夕方へと変わろうとしていた。
「……グ、レイ……?」
ぼんやりと宙を見つめていただったが、優しく頭を撫でる手の感触に視線をめぐらせ、ベッドの端に腰掛ける青年を見つけた。
「まだ眠っていていい」
「……ナイトメアは?」
「ナイトメア様は仕事の続きをなさっている」
夢現のような瞳では聞いている。
グレイは相変わらず、少女の頭を撫でていた。
「若い女性があのようなことをするのは感心しないな」
「……な……に?」
「男の胸に寄り掛かって寝ることだ。それに素肌に触れるのも、触れさせるのもダメだ」
「……ナイトメア……なのに?」
「たとえナイトメア様でも、だ」
別には世間知らずでも、危機管理意識がないわけでもない。
どちらかと言えば、隙のない少女。
それでも忠告するのは、グレイが心配だからだ。
当の本人は聞いているのか いないのか、ぼんやりとグレイを見ている。
「―――」
名を呼べば、なぁに?、と返ってきた。
「もう少し眠っているといい。ナイトメア様の仕事が一段落したら起こしにくる。そうしたら食事にしよう」
「う……ん」
アクアマリンの瞳が瞼の裏に隠される。
撫でていた手を滑らせて、少女の髪を一房すくう。
「おやすみ、」
柔らかな金糸に、グレイは接吻けを落とした。