手を伸ばせば威嚇する
不規則な時間帯が昼から夜に変わろうとする廊下を、グレイ=リングマークは書類を持って歩いていた。
「まったく……何処に隠れているんだ」
グレイが目を離した隙に、ナイトメアは大量の書類から逃げ出していた。
クローバーの塔をこれだけ探して見つからないとなると、『夢』の中に逃げ込んでいるのかもしれない。
グレイは大きくため息をつく。
一先ずナイトメアの私室に戻ることにして、何気なく窓の外へ目をやると、薄暗い庭でこの塔に住まう少女の姿を見つけた。
―――確かこの辺りだったはず。
かさり、と低い枝葉を避けて庭を探せば、まもなくランタンの灯りが少女を照らしだした。
光色の金の髪はランタンに照らされて今は赤みを帯びていて。
アクアマリンの瞳は閉ざされて少女が寝入っていることを知らせている。
どうやら先の時間帯に読書がてら庭へやってきて、そのまま眠ってしまったようだ。
「様」
グレイは静かにその名を呼んだ。
同じ塔に住んでいて、同じ人物の周りにいる割に、グレイはこの少女とまともに顔を合わせたことがなかった。
おそらく、避けられているのだろう。
それも当然だ。グレイはナイトメアの命を狙っていて、少女はナイトメアの妹なのだから、敵とも言えるグレイにいい顔をする筈がなかった。
「様」
少女の傍らに膝をついて、グレイはもう一度その名を呼んだ。
目覚める様子のない少女にため息をついて、グレイは少女を抱き上げた。
廊下を歩きながらグレイは頭を悩ませていた。
を何処へ連れて行くべきか、に。
本来なら当然、少女の部屋に寝かせるべきだろう。
しかし親しくもない(と言うか、嫌われている)男が、むやみに女性の部屋に立ち入るのも如何なものか。そもそもグレイは、の部屋が何処にあるのかを知らないのだ。
かといって、グレイの部屋に寝かせるのも問題がある。連れ込まれた等と不名誉な噂を立てられては、少女に迷惑をかけてしまう。
さて、どうしたものか。
考えていると、微かに胸元を押される感触がした。
視線を落とせば腕の中の少女がアクアマリンの瞳を眠たげに揺らして見上げている。
「おろして」
に言われて、グレイは静かに少女をおろした。
「……ありがとう」
「いえ、別に構いません」
くるり、と少女が踵を返す。
グレイは去り行く背を見送りながら、そういえば きちんと言葉を交わしたのは初めてだったな、と思った。
「なんだ、に振られたのか」
存外情けない男だな。――顔を見せた途端ナイトメアに笑われて、グレイは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんのことですか?」
そうとぼけてみても《夢魔》である彼には心を読まれている。
今ほどその読心の能力を忌々しく感じたことはない。
そんな考えも読まれているのだろう。ナイトメアは声を殺して笑っている。
「―――人見知りしているだけだ」
侮然としてナイトメアの机に書類をのせるグレイに、独眼の上司は口端をあげたまま言った。
言われたグレイはなんのことか理解できずに眉を潜めた。
「がお前を避ける理由だ。あの娘は人見知りするんだ」
「人見知り」
あの少女らしくない単語だ。
「そうでもないぞ。気が強いわりに、他人を怖がる。まるで警戒心の強い猫のようなんだ」
可愛いだろう、と自慢げに話す。ようするにナイトメアは――
「こら、シスコンとか言うな」
「言っていません。思っただけです」
言葉にせずとも伝わるとは便利なことだ。
「貴女は庭で寝るのが趣味なんですか」
ある昼の時間帯、2階の窓から外を見ると件の少女がいて、グレイは庭へ下りていった。
前回と同じ木の根元に座り込んだは、グレイの声に瞼を持ち上げる。
「別に寝てない」
「そうですか」
アクアマリンの瞳がグレイをねめつける。その強い眼差しはどう見ても、嫌われているのではないか。
「……なに?」
手元の書物に視線を落とす少女を、グレイは無言で見下ろしている。
は俯けたままの視線で尋ねた。
「いえ、別に。此処にいると迷惑ですか?」
「……仕事はどうしたの?」
「今は休憩中です」
「ナイトメアの寝首をかくんじゃないの?」
「……隙があれば」
「あの人は隙だらけだわ」
が振り切るように立ち上がった。
「貴方じゃナイトメアには勝てないわよ」
呆気にとられるグレイを置いて、少女は塔の中に戻ってしまった。
軽いノックの後に部屋へ入ってきた少女に、ナイトメアは「おや」と顔をあげた。
「また、グレイに構われたのか」
不機嫌顔の少女がソファに身を沈めたので、ナイトメアもそちらへ移動した。
は甘えるように兄の膝に頭をのせた。
「あの人、暇なの?」
少女の言葉にナイトメアは笑う。
あれからグレイは休憩時間になると、の元を訪れているらしい。
「お前に興味があるんだろう。仲良くしてやればいい」
「メアの命を狙ってるのよ!」
「グレイでは私に勝てないのだろう。ならば、そんなに目の敵にしないで仲良くしてやればいいのに」
「い・や!」
はっきりとした拒絶の意思にナイトメアが苦笑いをする。
「仕方のない、お姫様だな」
寝たふりで返す少女の金の髪を、ナイトメアは優しく撫でた。
「此処にいたんですか」
探していた少女の姿を捉え、グレイは表情には出さず機嫌を良くした。
扉の外に出ると、暖かな風がそよいでいる。
クローバーの塔の屋上では、金の髪に柔らかなアクアマリンの瞳を持つ愛らしい少女が、下の景色を眺めていた。
どうやら少女には警戒されているようで、最近では庭で姿を見ることがなくなってしまった。そのため探すのに一苦労している。
グレイの声には、うんざりしたように ため息をついた。
「なにか用?」
ちらりとグレイを見やると、少女は冷たい声で聞いた。
グレイに反して、の表情は不機嫌そのものだ。
「特に用があったわけではないのですが」
グレイは少女のいる塀まで歩を進めた。
2メートルほどの距離まで近付いた時に、が一歩後ずさった。
「…………」
「…………」
一歩、二歩、三歩。
グレイが距離を縮めるたびに、少女も。
一歩、二歩、三歩。
青年から距離をとるように、後退していく。
「…………」
「…………」
「なに、よ」
「いえ」
2メートルが彼女から許された、今のグレイの立ち位置らしい。
「美味い菓子を貰ったんですが、お茶にしませんか?」
「いらない。私、コーヒーより紅茶派だもの」
「では、紅茶を用意させます」
「いらない」
不機嫌な少女に緊張の色を見つけて、いつか言われたナイトメアの言葉を思い出す。
―――なるほど、警戒心の強い猫だ。
「何故、俺のことを避けるんですか?」
この質問は愚問だったと思う。
しかし少女はグレイの目をきっ、と見据えて「別に避けてなんかいないわ」と言った。
ちっとも そんな風には見えないのだが。
「そうですか」
「そう、よ」
距離をつめたグレイに、
「煙草の匂いが嫌いなの!」
言い放って駆け出した。
その言葉に納得して少女の背を見送ったグレイが、ナイトメアも喫煙者だということに気がついたのは、それから五十時間帯も経った後である。
(『マイ・スウィート・キャット』 Title by 恋花)