お澄まし顔の可愛いあの子
溜め込んでいた書類をようやく半分に減らすことができ、短い休憩時間を(主にナイトメアが)満喫していた時。
煙草を吸っている上司を見ていて気付いた。
ナイトメアも喫煙者だ、と。
「なんだ?」
グレイの心中を読んだナイトメアが紫煙を吐いて聞いた。
「いえ、ナイトメア様も喫煙者だったんですよね」
「なにを今更」
呆れた顔でナイトメアが見る。
グレイとて彼が煙草を吸っていることを知らなかったわけではない。
では何故、今更になって このようなことを聞いたのかというと――
「……なんですか」
ニヤニヤと笑うナイトメアに、グレイの眉間が寄る。
ナイトメアはグレイの心を読んでわかっているのだ。わかっていて何も言わない。悩むグレイを見て、明らかに楽しんでいる。
―――仕事をしたくないとか、具合が悪いとか、毎回子どもみたいに騒ぐのに。
「おい、こら。子どもみたいとはなんだ。上司に対する言葉ではないぞ」
「それならば仕事を溜めたり、薬を飲まなかったり、わがままを言わないで下さい」
たまたま通りかかった中庭の片隅、木々の茂みに温室が建てられていた。
ガラス張りの温室は夕方のオレンジ色の陽差しを浴びて、キラキラと光を反射している。
普段なら気にかけないような建物だったが、密やかな佇まいに興を示しグレイは中へと足を踏み入れた。
キィ、と。ちいさな蝶番の鳴る音がやけに耳につく。
中は予想していたような湿気や息苦しさはなく、微かに甘い花の香りが漂っている。
オレンジに染められた花々を横目にレンガ道を辿りながら、この甘い香りには覚えがある、とぼんやり考えていると。
少しひらけた場所に行き着いた。
位置的には温室の中心あたりだろうか。背丈のある樹々とメタルシェルフに囲まれた其処にはカウチソファ、と。
「……様」
数十時間帯ぶりに見かける少女の姿。
足の長いシェルデザインの青いカウチソファに、少女はうつ伏せるように寝入っている。
カツ。一歩を踏み出したグレイの靴音がずいぶんと響いた気がした。
それに反して、少女は寝息すらさせずに静かに横たわっている。
本当に生きているのだろうか。
細心の注意を払って歩を進めると、少女の傍らにまで近付いた。
肩がわずかに上下するさまを見て少し安心する。
それにしても――
「本当に何処でも寝る方だな」
それとも此処は少女の部屋なのだろうか。グレイは温室内を見渡した。
の眠る、青いカウチソファ。
アンティーク調のカフェテーブル。
同じ造りの白い椅子が二脚。
テーブルの上には、ティーコジーに包まれたポットと、紅茶が少しだけ残ったカップ。
メタルシェルフには何も置かれていなかった。
女性の部屋としては殺風景だが、この少女には合っている気もする。
せめてタオルケットでもあればいいのだが、あいにくそれらしいものは見当たらない。
逡巡の後、グレイは自分のコートを脱いで、そっとにかけた。
こんなことをして、少女が起きた時にきっと怒るだろう、と頭の片隅で考えながら。
「―――なんで貴方が此処にいるの」
寝起きのかすれた声がして、グレイは手にしていた書類から声の主へと視線を移した。
視線の先には、予想どおりの不機嫌をたたえたアクアマリンの瞳。
「おはようございます。目覚めの気分はいかがですか?」
「……おはよう。気分は最悪だわ」
そう言っては、ソファへと額を擦りつけた。幼な子がむずがるような仕草に、グレイは珍しいものでも見たような表情をする。まだ寝ぼけているのかもしれない。
「俺は随分 貴女に嫌われているようですね」
「当たり前でしょ。貴方はナイトメアの命を狙ってるんだから」
確かにグレイにはナイトメアを暗殺して、クローバーの領主になろうという野望がある。
いや。あった、と言うべきか。
病弱で引きこもりという、どうしようもない上司の世話を焼いているうちに、それが定着しつつあるのが自分でもわかっていた。
しかし今ここで彼女にそれを伝えたところで、理解してもらえるかどうか。
この心境の変化は、グレイ自身でさえ、なんとも説明し難いのだ。
未だソファから起き上がらないのために、ティーポットからカップへ紅茶を注いで少女へと差し出す。
その様子をアクアマリンの瞳で見つめていたが、やがてはゆったりと起き上がった。
体を起こした拍子にかけられていたコートがすべり落ちる。ようやく気付いた事実に、少女は眉を寄せた。
「……ありがとう」
少女は不機嫌そうな表情のまま、ひとまずコートを返し、引き換えにカップを受け取った。
温んだ紅茶をこくこく、と飲みほす。
少女の様子をグレイが見つめていると、視線だけで「なに?」と問われた。
「ナイトメア様も煙草を吸っているのに」
「?」
「俺だけ避けられるのは納得できないな、と」
いつものなら捕まる前に逃げ出すのだが、今日は勝手が違った。
背にソファ、目の前にはグレイがいるせいで逃げ出せない。
何処かで警告音が鳴っている気がするが、は努めて冷静な表情を繕う。
「だって、」
「なんですか?」
「―――貴方とナイトメアじゃ、全然違うじゃない」
寝起きとは違う、少しかすれた声で答えた少女に、グレイが一歩近付く。
警戒したが身じろぎすると、金の瞳が細められた。
「様」
グレイの左腕がソファの背凭れに伸ばされた。
反対の手での光色の髪に触れる。
指先でその髪を耳にかけてやると、一段とふたりの距離が近くなった。
の脳裏で警告音が少し大きくなる。
少女の動揺が手に取るようにわかって、グレイは口端をあげる。
あらわになった少女の耳元へ顔を近づけ、グレイは低く囁いた。
「俺の煙草の匂い、しっかりと移ってますよ」
最後にそこへ、唇でそっと触れた。
腕の中の少女が叫ぶまで、あと三秒―――。
(『マイ・スウィート・キャット』 Title by 恋花)