気まぐれ猫と、行方不明の飼い主と
「ナイトメアなら、いないわよ」
外出から戻ったグレイが上司の執務室を開けると、其処にいたのは病弱な上司ではなく、アクアマリンの双鉾に不機嫌な色を映した少女だった。
「何故、貴女が?」
本来ならナイトメアが座っているはずの執務机に腰掛けて、は手元の書類にサインをしている。
よくは知らないが、彼女はクローバーの国の領主の妹だから、ある程度の決定権は持ち合わせているのだろう。
「ナイトメアがいないから暇なの」
の手には見慣れないガラスの万年筆。
見慣れないというより、彼女が書物とティーカップ以外を持っているのをグレイは初めて見た。
愛らしいピンク色と華奢な造りのそれは、少女の白い手にはよく似合っている。
「ナイトメア様は?」
滑らかに動く白い手から目を離さずに問うと、その手がぴたりと止まった。
「様?」
「……引き篭もってるのよ」
「え?」
「引き篭もってるのよ!」
少女の呟きが拾えず耳をすましたグレイに、が声を荒げて立ち上がった。
「引き篭もってる?」
「そうよ。あの人が《夢魔》なの、知ってるでしょ」
夢に引き篭もってるのよ。――繰り返してから少女は嘆息して椅子に座り直した。とす、と軽い音が鳴る。
グレイはというと、の剣幕に目を丸くし、次いで言葉の内容を咀嚼し眉を顰めた。
「ああなったら、しばらく此方側には戻ってこないわ」
「この溜った書類はどうなるんですか?」
机に積まれた書類を一瞥してから、はつまらなそうに言い捨てた。
「このまま溜めておけば?」
ナイトメアが彼の世界に引き篭もってから、すでに時間帯は十回変わっていた。
その間、溜っていた書類はさらに増え続け……ということはなく、確実に処理されている。
今回も新しい書類を手にグレイが執務室を訪れれば、サイドテーブルには几帳面に並べられた書類。確認済みのサインがされたもの、ナイトメアのサインが必要なもの、再提出のもの……と分類されている。
グレイは確認済みの書類を一枚取り上げると、紙面に目を走らせた。
几帳面な字で少女の名がサインされ、最後に承認印が押されている。
ナイトメアが使うものとは違う細工のそれは、少女がナイトメアに与えられた絶対的な信頼の証。この承認印のあるものは領主の承認と同等の権限を持つ、と誓約書にも記載されているのをグレイは確認していた。
この数時間で見慣れた少女の字と承認印に、グレイは感嘆の吐息を漏らす。
溜めておけばいい、と言い放っただったが、いつの間にかこの部屋を訪れて書類を片付けていく。
正しく、いつの間にか、なのである。
最初の日以来、いつ訪れているのか未だグレイには確認できていないのだが、わかっているのは、誰かがこの部屋にいる時には絶対に少女はやって来ないということ。そして少女は、自分のしていることを あまり知られたくない様子だった。
それについて、グレイは追究しないことにしていた。少女の機嫌を損ねて仕事が滞るのだけは御免だ。
病弱で子どもみたいに駄々をこねるナイトメアより、よほど仕事が早くて正確なのだから。
夕方がやってきて一面がオレンジに染めあげられている。
中庭を抜けて温室までやってきたグレイは、静かにドアを開けた。
「また来たの?」
定位置である青のカウチソファに座って本を読んでいた少女が、ちらりとグレイに視線を向けた。
呆れた様子は窺えるが、常の態度よりずっと柔らかい。今日は機嫌が良さそうだ、とグレイは思った。
「なに?」
「美味い菓子を貰ったので、一緒にお茶にしませんか?」
「貴方、暇なのね」
このやりとりも常のこと。
「暇ですよ。ナイトメア様がいらっしゃらないから、やることもない」
いつもなら少女に にべもなく断られて終わる会話だが、今回は様子が違った。
「いいわよ」
「えっ?」
聞き慣れたの声が、聞き慣れない言葉を紡いだので、グレイはおもわず聞き返してしまった。
「…………」
「…………」
「……なによ」
「いえ、」
ぱたん、と閉じた本を傍らに置くと、は不機嫌そうな顔でグレイを見上げた。
「別に、どうしてもお茶が飲みたいわけじゃないもの。嫌ならいいわよ」
「いえ、俺から誘ったのだから嫌だというわけではありません」
ただ、意外だっただけだ。
未だ不機嫌そうに睨んでいる少女の気が変わらないうちに、と。
「お手をどうぞ、お姫様」
差し出されたグレイの手にアクアマリンの瞳をちらりと向けて、「結構よ」とは立ち上がった。
無理にでもその手を取れば、間違いなく少女は怒るだろう。
怒る少女も可愛いのだろうな、という考えがグレイの頭を過ぎったが、逃げられてしまっては勿体ないので、おとなしく差し出していた手を戻した。
グレイの2メートルほど後ろを歩いている。
この距離は縮まらずとも、警戒心の強い少女が自分の後ろをついてくる姿に、グレイは満足することにした。