ちいさく引かれた僕の袖
まどろみを揺さぶるように、優しい月の光が降り注いでいる。
頬を撫でる風と何処かから聞こえる にぎやかな音に、は閉ざしていた瞼をゆるゆると上げた。
見上げた先には星空が広がっていた。
「目が覚めた?」
何処だろう、とぼんやりした意識で考えていると聞き覚えのある声がして、は声の主を見やった。
「ボリ、ス?」
「そうだよ。久し振り、」
久方振りに会う友人は相変わらず目に痛いほどのピンクで、にこにこと機嫌よく笑っていた。
一方は、酷く気落ちしたようにその双眸を閉ざした。
「引っ越しがあったのね……」
「ああ。今回、俺ははじかれなかったけど、あんたはまた引き止められたみたいだね」
「そう、」
つまり此処にはクローバーの塔はない、ということだ。
それは目が覚めた時からわかっていた。クローバーの塔の自室で寝ていたはずなのに、目を覚ませば暗い森の中にいたのだから。
、とボリスが心配そうに少女の名を呼ぶ。
「大丈夫よ」
静かに瞳を開く。
「ボリスがいて良かった」
独りでなくて、良かった。
「俺も、あんたが寝ててくれて良かったよ」
がことり、と首を傾げた。
「引っ越しで独りになると、あんた泣くだろ。俺が見つけるまで寝ててくれれば、泣かなくてすむからさ」
「……子ども扱いしないでよ」
強がっているのは ばれているだろうけど、はそう言ってそっぽを向いた。
「にぎやかな音がする」
差し出されたボリスの手を借りて座り込んでいた木の根元から立ち上がると、はぽつりと呟いた。
「ああ、遊園地が近いからね。せっかくだから行ってみる?」
誘っているような物言いなのに、すでにボリスはの手を引いて歩き出している。
「遊園地があるの?」
「そ、ゴーランドのおっさんの遊園地。俺そこで居候してるんだ」
ほら、あれだよ。――ボリスの指さした先には、陽気な音楽とたくさんの人で賑わう遊園地があった。
「は遊園地にくるの初めて?」
「うん。話には聞いたことあったけど……人がたくさんいるのね」
つないでいる手に力が込められる。が無意識にとった行動に、ボリスの機嫌はさらに良くなった。
この国にはクローバーの塔がないから、が頼れるのはボリスだけなのだ。その事実は単純に猫の独占欲を満足させる。
「俺が一緒だから大丈夫だって。そんなことより、あんたはどれに乗りたい?」
「あまり危なくないのがいいわ」
「えー、それじゃ、つまんないぜ。あれとかすっごい楽しいのに」
ボリスお勧めのアトラクションを見上げたは、「……ボリスが好きそうね」と呟くに とどまった。あんなありえない動きをするアトラクションには乗りたくない。
期待に満ちた眼差しと ぱたぱたと揺れるピンクの尻尾に、は困ったように笑う。
「私はここで待ってるから、ボリス乗ってきていいわよ」
「が乗らないなら俺はいいよ。他のにしよう。あれなんかどう? あんまり危なくないぜ」
一緒にいる、という約束を守って手を離さなかったボリスに、はほっと胸を撫で下ろした。
ある日、目が覚めたら そこは見慣れた寝室ではなく、見たこともない場所だった。
周りを見渡しても付近を歩き回っても、ナイトメアはおろかクローバーの塔で働く皆の姿すらない。
夕方の草原には誰も居らず、キラキラ光るオレンジ色と さやさやと風が揺らす草の囁き、そして膝を抱えた光色の髪の少女だけ。
どれくらいそうしていたのか――
「あんた、なんで泣いてるの?」
かけられた声に勢いよく顔を上げると、夕焼けよりも目に眩しいピンク色の猫が立っていた。
「ひょっとして迷子? 引っ越しがあったばっかで安定してないから危ないよ」
初めて会ったピンクの猫は少女の前にしゃがみ込むと、金の瞳で少女の顔を覗き込んだ。
驚いて瞬きをした拍子に涙がこぼれたが、それを拭うことも忘れて目の前の猫を見つめる。
クローバーの塔からあまり出ない少女にとって、かなり衝撃的なカラーリングと服装。加えて、ナイトメアや限られた塔の住人以外と口を利くのも初めてのことなのだ。
知らない場所で独りきり、初めて会う猫に声をかけられた少女は、どうしていいかわからず俯いて涙をこらえた。
「あんた、顔なし……じゃないよな。名前は?」
「…………」
「送ってやるよ。どこの子?」
「…………」
だんまりで通す少女に猫は困ったように ため息をついた。そのため息に少女の肩が、びくりと揺れる。
―――なんていうか、放っておけない子なんだよな。このまま俺の家に連れて帰っちゃおうか。
そんなことを猫が考えているとは知らない少女が、柔らかそうなピンクのファーの端をつまんで、くいっと引いた。
「……置いてかないで」
風に攫われそうなほど ちいさな呟きは、しかし、猫の耳にはきちんと聞こえた。
「大丈夫、置いてかないよ」
猫が笑って差し出した手に、少女はおずおずと手を重ねた。
「なに笑ってるのさ」
ジュースを両手に持ったボリスが不思議そうな顔で聞いてくる。
「初めて会った時のことを思い出してたの」
渡されたジュースに礼を言い、代わりに預かっていたピンクのファーを返すと、がくすくすと笑った。
「ああ、あの頃はあんた まだちいさかったよな」
「ボリスだって今より背が低かったわ」
「ちぇっ、て……あれ?」
ボリスがファーに顔を寄せる。なにやら難しい表情を浮かべると、今度はの首筋に顔を寄せた。
「な、なによ……」
まるで猫のように(正真正銘ボリスは猫だけど)、の首筋から髪、そして服の匂いをかぐ。
「……なぁ、。クローバーの塔に新しい住人が入った?」
胸元の匂いをかいでいたボリスが 腰をかがめたままを見上げ、金の瞳に拗ねたような色を映した。
その様子と質問に、少女はアクアマリンの瞳を瞬いた。
「う、ん。グレイ=リングマークよ。あの人も役持ちだから知ってるでしょ?」
「知ってる……《トカゲ》だろ。あんた、仲いいの?」
「仲……?」
は首を傾げた。別に仲はよくない、と思う。最近は少しだけ彼のことを見直しているから、悪くもないと思うが。
ずいぶんと悩む少女に、ボリスが答えを催促する。
「仲は……普通?……じゃないかしら」
「普通って、普通に仲がいいってこと?」
「え、え……? 良くも悪くもない、ってつもりだけど。どうしたの、ボリス?」
拗ねている理由がわからず、は困ったように眉を下げた。
「微かにだけど、あんたに煙草の匂いが移ってる。《夢魔》のじゃない、別の匂いだ。それってつまり、人見知りのあんたに匂いが移るくらい一緒にいるってことだろ」
ボリスの言葉に「匂いが移らないように気をつけてたのに」とは眉を寄せた。彼とは元々それほど一緒にいるわけではないし、喫煙中なら尚のこと、寄りつきもしなかったのに。
嫌だわ、と不満げに呟く少女を見て、ボリスの機嫌も直ったようだった。
ベンチに腰掛けて 会わなかった間の話に花を咲かせていると、空の色が変わっていく。夜空が瞬く間にスカイブルーに染められていった。
「あーあ、時間帯が変わっちゃったね。そろそろクローバーの塔に送るよ」
ボリスの言葉には、ぱっと表情を輝かせた。今日一番の嬉しそうな顔にボリスはやれやれ、とため息をつく。
どれほど可愛いプレゼントを贈っても、楽しい場所に連れていっても、が一番の笑顔を見せるのはこの時なのだから。
「あのドアなんてどう?」
花のあしらった可愛らしいドアは、にぴったりだ。ボリスはそっと扉を開く。扉の向こうに見慣れた部屋を見て、がボリスへと向き直った。
「ありがとう、ボリス」
花の笑顔を浮かべて、ボリスの頬へ、そっとキスをする。
「どういたしまして、。次の引っ越しでは一緒の国になれるといいな」
「うん、そうね」
アクアマリンの瞳で笑う友人の姿はやがて、パタン、と閉じた扉の向こうへと消えた。
これでしばらくは少女と会うこともない。
可愛い友人が次に会う時まで笑顔でいてくれることを願って、明るい空に浮かぶ白い月を見上げた。