アリスの森

背中を向ければ甘く鳴く

 キィ。
 ちいさく軋む蝶番の音に顔をあげると、煉瓦道を歩く静かな足音が耳を打つ。
 誰だろう、とは思わなかった。
 塔に住まう者なら、この温室が少女の気に入りの場所であることを知っている。だから、此処に来る者は自然と限られてくるのだ。
 癖のない歩き方に足音の主を思い浮かべていると、予想どおりに書類を手にしたグレイ=リングマークの姿が現れた。





 近頃では見慣れた黒髪の青年に、は手元の本を閉じて わずかに首を傾げた。
 数時間前にナイトメアを捕まえたグレイは、溜まりに溜まった書類を片付けるべく執務室に詰めていたはずである。
「終わったの?」
 そんなことはありえないが とりあえず聞いてみると、グレイは苦りきった表情で足を止めた。
 いつもの二人の距離が2メートル、それより少し距離をとったのはグレイなりの配慮から。
 以前、少女がソファに座っている時にグレイが悪戯心から詰め寄ったことがあり、それ以来、背後に障害物があるとはさらに警戒心が強くなるようになったのだ。
 二人の間にある充分な距離に、少女はちいさく安堵の息をつく。それすらもの青年には読み取られたようで、苦味を帯びた笑みで返される。

 ―――また、その表情かお

 思えばといる時、彼はこんな表情をすることが多い。
「ナイトメア様はまだ仕事中です。あの様子では時間帯が変わっても終わらないと思います」
 グレイの言葉には、ああ、と呆れた声を上げる。
「まだ、ごねてるのね」
 次に時間帯が変わったらナイトメアと出掛ける約束をしていたが、この様子では反故にされてしまうか。
 少女はちいさな ため息と共にわずかに双眸を閉ざすと、仕方のない人、と独りごちた。


 やがて一対の薄水色の宝石がグレイを見上げたが、俯きがちに視線を落とす少女の揺れる睫毛を見つめていたグレイは、一瞬 反応が遅れた。
「なに?」
 いぶかしむの声に、グレイは曖昧な返事でやり過ごす。
 ただでさえ警戒されているのに、用もなく見ていたことが知れると またこの少女に嫌な顔をされるに違いない、と。
「……その書類、」
 グレイの態度に釈然としないものを感じたが、はグレイの手にある書類を指差す。そして、掌を上に向けて無言で書類を渡すよう促した。
「申し訳ありません。急ぎの書類なのですが、ナイトメア様を待っていられなかったので」
「承認印が必要なのね。一度 部屋に戻らないといけないわ」
 書類の内容に目を通したが、定位置のカウチソファから立ち上がる。
「すぐに届けるから、あなたは戻れば?」
 立ち上がっても高い位置にあるグレイの顔に、やっぱり背が高い、などと関係のないことを思っていた。





 久し振りの街はやはり賑やかで人通りも多かった。
 見慣れない店は増えているし、行き交う顔なし達は知らない人ばかりだし。

 ――― 一緒にいるのは、この人だし。

 は前を歩く背の高い後ろ姿を見つめて、早く帰りたい、と心の中で繰り返していた。
 いつもどおり、グレイの2メートル後ろを人混みを避けながら着いていく。滅多にクローバーの塔を出ない少女には、これが中々に一苦労だった。
 それもこれも全部、ナイトメアのせいだ。ナイトメアがあんなことを言うから。
 は前の時間帯に交わした会話を思い返して、思いっきり眉根を寄せた。





「ナイトメア、まだ仕事 終わらないの?」
 グレイに頼まれた書類を持って執務室を訪れれば、ナイトメアはぶつくさと愚痴を零しながら のろのろと書類にサインをしていた。
 文句を言うより、手を動かせばいいのに。――がそう思っていると、ナイトメアが「こんなに書類を山積みにされて、やる気など起こるものか」と少し大きめの声で叫ぶ。
「山積みになる前に仕事をしてくださればいいんです」
「読んでサインするだけでしょ? 簡単じゃない」
 積まれている書類は、全てグレイが目を通して内容を確認しているはずだ。ナイトメアの指示が必要なものはその都度 確認しているし、内容別・処理の仕方別に分類してナイトメアに渡している。
 が呆れるくらいの補佐ぶりだと思う。
「次の時間帯になったら、買い物に付き合ってくれるって言ったくせに」
 少女の拗ねたような物言いに、ナイトメアが書類から顔を上げた。その傍らでグレイは、ナイトメアが仕事を放り出して買い物へ行くと言い出すのではないかとハラハラしている。
 しかし、ナイトメアは予想外なことを口にしたのだ。
「よし、私の代わりにグレイを連れて買い物に行ってくるといい」
 さも名案とばかりに のたまった言葉に、グレイとは目を丸くするしかない。
「上司命令だ。グレイ、きちんと うちのお姫様をエスコートするように」
 いつになく強引に話を進めたナイトメアは、「文句を言うなら引き篭もるぞ」の一言で二人の意見を封じてしまったのだった。





 この人も、いつもみたいに はっきり断ればいいのに。変な人。
 人混みの中でも頭ひとつぶん高いグレイを見上げる。彼の背が高いから見失うことはないので、その点は安心できた。

 ―――でも、歩くの早い。

 多分、これでも歩調を緩めているのだと思う。たまに塔内で見かける彼は、もっと早く歩いていた気がする。
 しかしそれでも、人混みを避けて歩くには着いていくのが やっとの早さだ。
 普段クローバーの塔から出ないので、街の地理にも詳しくはない。
 知らない人ばかりの街中は、緊張と不安ばかりが大きくなる。
 せめて一緒にいるのがナイトメアかボリスであれば安心できるのに、グレイ相手では甘えることもできない。

 ―――だいたい、なんでこの人、私に構うのよ。

 は本来、他人に干渉されるのが苦手だった。心配されたり気にかけられたりしても、どういう反応を返せばよいか わからないのだ。
 「早く帰りたい」と「ナイトメアの馬鹿」を心の中で繰り返しながら歩いていると、ふいにの前に人影が立ち塞がった。
 びくりと肩を揺らして立ち止まるに、その人影が親しげに話しかけてくる。
 何かされたわけではないのだが、緊張感も最たる状態のには相手の紡ぐ言葉も耳を素どおりするばかり。
 真っ白になった頭で周囲を見渡した時、視界に映ったのは距離の開いてしまったグレイの後ろ姿。
「……っ」
 次の瞬間、その黒の後ろ姿に向かっては駆け出していた。


 すぐ間近にの気配を感じた瞬間、前触れもなく左腕をぐいっと引かれた。
 突然のことではあったが、力の主が件の少女であったので、グレイはバランスを崩すような失態も見せずに済んだ。
 しかし驚きはあったので何事かと振り返れば、そこにあったのは泣き出しそうなアクアマリンの瞳。
「どうかしましたか?」
 不穏な空気は感じなかったが、少女を庇うようにして周囲を見渡せば、数メートル先で困ったように こちらを窺う花売りの姿が見える。
 グレイは状況を理解すると、わずかに口元をほころばせた。いや、の心境を思えば、のんきに笑っていては申し訳ないのだろうけれど。
様、大丈夫ですよ。花売りが声をかけてきただけです」
 眉間に力を入れて泣き出すまいと堪える少女は、グレイの言葉にのろのろと背後を振り仰ぐ。の視線に花売りは申し訳なさそうに一礼すると、やがて人混みの中に紛れてしまった。
「急に声をかけられて驚かれたんですね。落ち着かれましたか?」
 できるだけ柔らかい口調をグレイは心掛けた。
 出掛ける前にもナイトメアから、少女が人見知りであることや 街中に慣れていないことを聞かされていたのに、常の少女が強気であるから うっかり失念していたのだ。
 グレイのコートの左袖を握り締めたまま、は俯いている。
 さすがに いつものように噛み付く元気はないか。折角なので頭でも撫でてみようか、と思っていると。
「……だって、」
 落ち着いてきた少女が俯いたまま語り出す。
「……貴方、歩くのが早いんだもん……こんな所にひとりで置いていかれたら困る……」
「それは……申し訳ありませんでした」
 ゆっくり歩いているつもりだったが、やはり背後にいる人間に歩調を合わせるのは難しい。
 ならば――
「はぐれないように、手を繋いではいかがですか?」
 の答えはわかっていたが、一応聞いてみる。
 案の定、少女は眉を寄せて力いっぱい拒否してみせた。





 グレイの半歩後ろを ちょこちょことついてくる光色の髪の少女。
 未だコートの左袖を握り締めたままのを、ちらりと見下ろして。

 ―――これはこれで可愛らしい。

 などとグレイが思っていたことは、内緒の話である。

(『マイ・スウィート・キャット』 Title by 恋花)