恋しいなんてきっと錯覚
風に乗って届けられるオールドローズの芳香。
テーブルの上の芳しい紅茶の香り。
名前を呼ぶ優しい声と。
繋いだ手のぬくもり。
貴女と、彼と、三人でいられた あの時間だけが、私の幸福。
明るかった空が少しずつ朱の色を帯び始め、時間帯が変わることを知らせている。
庭を散歩していたアリスは、一度 足を止め空を見上げた。
橙色に染め上げられる空を見て、この時間帯が一番好きだと言った美しい女性のことを思い出す。ハートの城に住まう彼女も、今頃は機嫌良くこの空を見上げているだろうか。
「ビバルディの苛々が少しでも収まってくれればいいんだけど」
知らず ため息をついたアリスが庭の奥へと視線を向ければ、一瞬、生垣の向こうに人影を見たような気がした。
「あっちは――薔薇園?」
帽子屋屋敷の広大な敷地において、この先にあるのは何人たりとも立ち入ることが許されない薔薇園である。
帽子屋ファミリーNo.2のエリオット=マーチですら、彼のボスに許可されていない地。そこに足を向けるなど自殺行為だ。
「見間違い?」
気になったアリスは人影の見えた方へと歩を進めた。
この屋敷の主であるブラッド=デュプレが自ら手入れをしている、秘密の薔薇園へと足を踏み入れる。
あの人影は確かに自分を見ていたと思う。アリスが気付いて目が合うより先に姿を消した人。
「一体、誰なのよ」
逸る気持ちが自然とアリスの足を速める。
その時――
真っ赤な薔薇の向こうに黒い日傘がちらりと見えた。
その日傘を追いかけて、真っ赤な薔薇の咲き誇る道を進んでいく。
そうしながら、いつだったか姉が読んでいた童話のような小説のような話を思い出していた。
あれは確か、女の子が白ウサギを追って不思議の国へ迷い込む話だったはず。
―――もっとも、今私が追いかけてるのは、あの白ウサギなんかじゃなくて黒い日傘の人影なんだけどね。
今はもう見えない黒い日傘を追いかけていくと、やがて薔薇園の中心、広場のようになっている場所へアリスは出た。
橙色の世界の中には、薔薇とアリスしかいない。
どうやら完全に見失ってしまったようだ。
「何をしておる?」
暫し呆然としていたアリスの背後から、唐突によく響く聞き慣れた声がかけられた。
驚いて振り返れば、其処にいたのは 美しい赤の女王。
「ビバルディ」
アリスに名を呼ばれた女王は、不思議そうな表情でやってきた。
「アリス、久し振りじゃな。何をぼうっとしておったのじゃ?」
「来ていたのね、ビバルディ」
「ああ」
愛しそうに彼女の薔薇を撫でるビバルディに、アリスも目を細めた。
「で、おまえは何をしておったのじゃ?」
「……ねぇ、ビバルディ。この薔薇園で誰かに会わなかった?」
薔薇を愛でていた紫の瞳がアリスを映した。
先程までの表情とはうって変わっての無表情。しかし機嫌を損ねたわけではなさそうだ。
「誰か、とは?」
「黒い……日傘の……誰かはわからないのだけど」
言ってよいのかどうか悩みながら、アリスが言葉を紡ぐ。
ビバルディは黙って聞いた後、周囲へ視線を巡らせた。
「アリス」
紫の瞳がまたアリスを見つめる。アリスもわずかに顎を上げてビバルディを見た。
「この先」
赤い宝石のあしらわれた金の杖が、薔薇園の奥を示す。
「この先――薔薇園の奥に黒い門があるが、その先へは入ってはならぬぞ」
「黒い、門?」
「ああ、そうだ。おまえはとても可愛いから、特別にこの薔薇園へ立ち入ることを許しているが、その門より先へは入ってはいけないよ。あの先はわらわと あやつの許しだけでは立ち入ることができない領域だからね」
「ビバルディとブラッドの許しがあっても駄目な場所?」
この薔薇園はブラッドが彼と 彼の姉の為に作った場所。その薔薇園において、彼らの許可だけでは立ち入れない場所が存在するのか。
「それは《ルール》だから?」
この世界お定まりの《ルール》。
アリスから見れば無意味で理解不能なものも多いが、この世界の住人にとっては重要なものらしい。
今回もそれなのだろうか。
「いや。単純に門から先は、わらわの薔薇ではないからだ」
いいか、くれぐれも立ち入るでないぞ。――まだ少し納得できない、という表情のアリスへ、ハートの女王はそう念を押したのだった。
「相変わらず不自然な薔薇じゃ」
些か不機嫌をにじませた声でかけられた言葉に、其処にいた少女は困ったように笑って背後を振り返った。
「珍しいですね、貴女が此処に入っていらっしゃるなんて」
夜の闇の中、月光に照らされたのはハートの女王陛下。
同じように月明かりをうけて立つ紫水晶の瞳をもつ少女は、トレードマークともいえる黒の日傘をベンチの背に掛け、薔薇の手入れをしていた。
少女より幾分か赤みを帯びた紫の瞳を持つ女王は、の白い手が触れる青い蒼い薔薇を憎々しげに見やる。
その様子には苦笑した。
薔薇は赤以外認めない彼の女王は、特にブルーローズの存在を不自然だと言って決して認めない。
「お嫌いなのですから、外にいらっしゃればよろしいのに」
一方のは、赤い薔薇が一番好きだが、他の色もそれなりに気に入っている。
秘密の薔薇園のさらに奥にある此処は、そんな薔薇たちが咲き誇る少女のための花園だった。
「手入れなどという地味な作業は、あれにやらせておけばよい」
「もちろん、いつもはボスがしてくださってますわ。今日は少し気になっただけですから」
は青い花弁をそっと撫でると、薔薇から手を離した。
あまり此処の薔薇ばかりを構っていると、目の前の赤い薔薇のような人が拗ねてしまう。
自分よりもずっと大人の美しい女性。でも時々見せる子どものような顔。
「」
そんなことを考えながら手を洗っていた少女を、ビバルディが呼んだ。
「はい?」
蛇口を閉めて顔を上げたを、ビバルディはアンティークテーブルへと腰を下ろして見つめていた。
「」
「はい」
「」
「どうかなさいましたか?」
繰り返し自分の名を呼ぶ女王に、は首を傾げる。耳元でさらり、と黒髪が揺れ、頬に触れた。
「―――」
白い指先で黒髪を払うの耳に、優しい声が届く。
彼女の意図を汲み取ったが、ビバルディへにこりと微笑んだ。
「なにかしら?――ビバルディ」
「そなたはアリスを知っているかえ?」
ティーポットへ茶葉を入れながらは、ビバルディの問い掛けに一瞬だけ眉を顰めた。
「余所者のお嬢様? 噂話程度になら」
「会ったことはないの?」
「機会に恵まれないようで」
これは嘘だ。ボスからは何度か、余所者の少女を招いてのお茶会を提案されていた。
それを悉く拒否しているのは、他ならぬだった。
「あの男はそなたにアリスを会わせることもしないのか。本当にどこまでも駄目な男じゃ」
お湯を注いで砂時計を反してティーコジーをかけて―― 一連の作業を流れるように こなしながら、は薄く笑った。
ビバルディとて、ブラッドがにアリスを紹介するのを忘れているとは思っていないだろう。それでも二人を引き合わせていないのなら、それはがアリスに会う気がない、ということ。
―――何をヘマしたのかは知らぬが、の機嫌を損ねたまま二人を会わせずにいるなど、本当にあやつは愚弟の極みじゃ。
ビバルディは深いため息をついた。
その様子をちらりと見て、は真っ白なカップに紅茶を注ぐ。
薔薇の芳香に負けぬ紅茶の香りに、ビバルディが顔を上げた。
「はい、どうぞ。ビバルディ」
「あぁ――やはり、そなたの淹れる茶は格別に美味い」
「ありがとう」
ビバルディの純粋な笑顔に、も嬉しそうに微笑み、席へと着く。
「近々 新しい茶葉が城に届く。そうしたら、また城へ遊びにおいで。一番にそなたと飲みたい」
「ええ、遊びに行くわ。約束よ」
この無慈悲な女王が、何よりも自分を優先してくれることがは嬉しかった。
次の言葉を聞くまでは。
「そうだ。アリスに会ったことがないのなら、その時にアリスも呼ぼう。女三人のお茶会はきっと楽しいよ」
「…………」
が押し黙った。相変わらず笑みを浮かべてはいるが、決して機嫌がよいとはいえない様子だ。
その証拠に、アメジストの瞳は笑ってはいない。
「……なんじゃ、わらわのお茶会でもあの娘に会うのは嫌なのか?」
拗ねたようにビバルディが言う。
は指を掛けていた白いカップを静かに持ち上げて、琥珀の液体を一口飲んだ。
「…………わたくしが余所者のお嬢様に会うのが嫌だとわかっていて そんな提案をするなんて、ビバルディもブラッドも本当に意地悪ですわ」
「あれと一緒にするでない。気分が悪くなる」
「わたくしもビバルディがそんなことを言うから気分が悪くなりました」
つん、とはそっぽを向く。
「アリスは可愛いし、面白い娘じゃ。おまえも会えば きっと気に入るよ」
「ブラッドも同じように言ってました」
この世界では、余所者は誰にでも好かれる存在。此処の住人ならば、好きにならずにはいられない存在。
それはとて例外ではないのだ。
「だから、会いたくないのです」
「ほう」
ビバルディは面白そうに目を輝かせた。
「ブラッドもビバルディも余所者のお嬢様のことばかり。二人の一番は、わたくしだけで よかったのに」
「ふふ、なんだ、やきもちか。そなたは ほんに可愛いの。心配せずとも わらわの一番はじゃ」
―――この薔薇園にあの娘を入れてしまったくせに。
三人だけの秘密の花園。
この薔薇園も、彼らの関係も、全部自分だけが知っていれば いいことだったのに。
「……わたくしも二人が大好きよ」
は蟠る不満を、紅茶と一緒に飲み干した。
ビバルディが美味しいと言った紅茶は、とても苦い味がする。
大好きなビバルディが、ハートの城の女王となった時も。
大切なブラッドが、帽子屋屋敷の主となった時も。
それまで三人で過ごした時間を簡単に壊してしまった この世界の《ルール》を、は誰よりも怨んだ。
今となっては遠い物語だけれども。
(『難攻不落のクイーン』 Title by 恋花)