触れない指先
「桃より、お前の方が大切に決まってるだろ」
迷いなく言われた言葉に、少女の口元は楽しそうに笑みを刻んだ。
「暇だな」
呟かれた言葉に嫌な予感がした。
続く言葉を予期して、確認の終わった書類を持って立ち上がる。
「――暇でしたら、こちらの書類に隊長印を捺してください」
読みもせずに隊長印を捺す自隊の隊長に呆れはするが表情には出さず、十一番隊四席という立場にいる少女は書類を受け取った。
「こんなに雨ばっかりじゃ、お外で遊べないよ」
副隊長である草鹿 やちるが同じようにぼやいた。
「おう、。久々に手合わせでもするか」
畳の上にぞんざいに座る更木 剣八がにやりと笑う。
少女――雛森 は、持っていた書類を関係資料に綴りながら、しれっと答えた。
「――あいにく、そのような時間は取れません」
「なんだよ、隊長命令だぞ」
「――隊の業務が滞りなく行なわれることを優先していますので」
「そんなん一角か弓親にやらせとけばいいだろ」
更木の言葉に、少し離れた執務机に座っている斑目 一角が声を上げた。
「隊長、ムリです。俺は手ぇいっぱいっスよ」
「同じく。僕の方も、これ以上はムリです」
綾瀬川 弓親も同意する。
「――そういうことですので、隊長は大人しくそこに座っていてください」
は無表情でそう言うと、斑目と綾瀬川の机から書類の束を取り上げ、更木へと手渡した。無言で隊長印を催促している。
更木が渋々その書類を受け取ったのと、執務室の扉が開かれたのは同時だった。
「――入室時には声をかけるように、と言いませんでしたか」
荒い息で扉を開いた十一番隊の席官を、は静かな声で叱責した。
落ち着かない呼吸の合間に席官が謝罪の言葉を述べると、更木が先を促す。
「例の任務で現世に行っていた班から連絡が……一人が死亡、二人が重症だと言うことです」
「一角」
おそらく予想していたのだろう。更木の呼びかけより早く、斑目が立ち上がった。
「適当に連れて、拾ってこい」
「わかりました」
「――八席と十席が待機してる」
の言葉に頷くと、斑目は斬魄刀を掴んで飛び出していった。
目下、十一番隊の上位席官を悩ませている課題はふたつ。
ひとつは、溜まっている書類。
もうひとつは、現世における十一番隊管轄内に現れた虚であった。
「これで被害は二桁ですね」
綾瀬川の言葉に、更木は面倒臭そうに鼻を鳴らした。
「今回の虚はウチの隊向きじゃないんですよ」
綾瀬川の言うとおり、今回の虚は些か面倒な能力を保持しているので、力押しの十一番隊には不向きなのかもしれない。
戻ってきた隊員から聞いた話では、幻覚を見せる類の虚らしい。大切な者だったり苦手な者だったり、ケースはさまざまだが、共通するのはその死神にとって強く印象に残っている存在だということだ。
「――傍若無人な彼らにも躊躇するような存在があるとは意外。戦闘集団を自称する十一番隊も他愛無い」
「そうだね」
の辛辣な言葉に、綾瀬川が苦笑する。幼くも美しいこの少女が無表情に言い放つと、その辛辣さも格段だ。
「どいつもこいつも、だらしねぇな」
更木はコキコキと首を鳴らした。
「あんまり放っておくと、ジジィがウルセーからなぁ」
「もう死神を三人食べてますから、半端な席官じゃ歯が立ちませんよ」
「面倒くせーが仕方ねぇか。おい、」
「――はい」
「どうする?」
「――出ます」
「じゃあ、お前に任せた。他に必要なら適当に連れていけ」
「―― 一角が戻り次第、状況を確認して出発します」
空になった湯呑みを下げるの後姿を見ながら、更木が再度 面倒臭そうに鼻を鳴らす。
「こんな面倒事にあいつを出したなんて知れると、日番谷の野郎がウルセーだろうな」
「僕がついていきますよ」
どうせあの少女は、他の隊員など連れていきはしないだろうから。
外では未だ、雨が降り続いている。
現世も尸魂界と同じように雨が降っていた。
今日流れたはずの血は、すっかり流されてしまっていた。
青白い燐粉を散らす地獄蝶が、和傘の柄を握るの指先にすっと止まる。
桜色の双眸がその動きを追って、地面から己の指先に視点を定めた。
「――――来た」
静かな呟きに地獄蝶が翅を震わせ、の和傘から綾瀬川の和傘の下へと移った。
それを確認して少女が一歩を踏み出す。そして、また一歩。
「、無茶はしないように」
ゆっくりと離れるちいさな背に向かって声をかけると、薄色の和傘の下でくすりと笑ったような気がした。
ふいに、和傘を打つ雨の音が消えた。
雨のはねる様を見つめていた瞳を上げると、見慣れた後姿があった。
銀の髪。
白い羽織。
背に負う『十』の文字。
「――…………」
しばらく見つめていると、白羽織を翻しその背が振り返った。
少女は黙ってその様子を見つめている。
やがて桜色の瞳と翡翠の瞳が絡み合う。
「」
呼ばれた名に、少女が瞳を眇めた。
「こんな所で何してるんだ?」
驚いた表情の少年に沈黙で返す。
「?」
「――虚が出るから」
「虚?」
少女の言葉に彼は眉を寄せる。
その様子を見てようやく、は僅かに口端を上げた。
「ひとりで虚退治なんて危ねぇだろ。更木の奴、なに考えてんだ」
「――心配、する?」
「当たり前だろ。本当ならお前には死神を辞めさせたいくらいなんだからな」
難しい顔の少年に「そう」とだけ返す。
「いい機会だ。、死神は辞めろ。俺だって隊長なんだから、お前を養うくらい稼ぎはある」
桜色の瞳で空を仰ぐ。雨が止んでいるのに空が灰色なのは、雨雲のせいではないのだろう。自分と目の前の彼以外は、皆同じように見える。
灰色の世界。
仰ぎ見る視界に、薄色の和傘と紅の飾り糸がちらりと覗く。
今はその薄色の和傘だけが、の世界に色を添えていた。
「、聞いてるのか?」
ぼんやりと空を、次いで和傘を仰いでいる少女に、日番谷が眉間の皺を深くして確認する。
その様子を眺めながら、差したままの薄色の和傘をくるりと回した。
「――桃ちゃんは?」
「は?」
「――桃ちゃんのことも、心配する?」
まっすぐに翡翠の瞳を見つめると、少年は呆れたようにため息をつき、少女との距離を短くした。
「桃はいいんだよ」
のすぐ前まで近付くと、少年の手が伸びてくる。
迷いも躊躇いもなく伸びる指先に、笑いがこみ上げそうになる。
「桃より、お前の方が大切に決まってるだろ」
そして。
愛しい声が紡ぐ甘美な響きに、の口元は楽しげに笑みを刻み、少年の元へと一歩を踏み出した。
「」
背後からかけられた声と。
頭上にかざされた薄色の和傘に、帰ってきたことを知る。
は手にした斬魄刀を一振りして、雨で薄まった赤の色を払った。
「お疲れ様、」
己の斬魄刀に労いの言葉をかけると、汚れを拭って静かに鞘へと戻す。
「何事もなく虚を昇華できたようだね」
「――うん」
綾瀬川から和傘を受け取ると、ひらりと青白い燐粉が舞い、薄色の下に地獄蝶が戻ってきた。
「どうだった?」
綾瀬川の問いかけに、は視線を上げる。
「――幻覚じゃなくて、化けてただけ。実に呆気ない」
おそらく記憶の一部を読むような能力だったのだろう。幻覚であれば綻びも少ないのだろうが、姿形を真似ているだけではすぐに襤褸が出る。
外見が似ているだけのお粗末なお人形さん。こんなものに何人も引っかかったとは、十一番隊も本当に他愛無い。
はため息をついて、綾瀬川の解錠した帰り道に足を踏み入れた。
「君には面白味のない相手だったみたいだね」
その言葉に足を止めて、肩越しに背後の青年を見やる。
「――そうでもないよ。それなりに甘美な夢だった」
ふふっと笑うと、は薄色の和傘をくるりと回した。
(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)