アリスの森

『好き』の理由

 冴えた夜空に浮かぶ月

 天地を覆う雨

 やわらかく舞う桜吹雪

 本の頁を捲る音

 林檎味の金平糖





の好きなもの、だろ」
 書類から顔もあげずに言った日番谷に、松本は感心したような表情をした。
「よくわかりましたね、隊長」
 無造作に並べられた五つの事象。
 それらは、日番谷の幼馴染のひとりである、桜色の瞳を持つ少女の好きなものだ。
「それくらいわかる」
「雛森はわからなかったんですよ」
 愛ですねー、という からかいの言葉には取り合わず、日番谷は書類に隊長印を捺す。
 前置きなくあんな単語を並べても、何のことか普通はわからない。
「でも隊長はわかりましたね」
「まぁな」
「それは、あの娘のことなら何でもわかる、ってやつですか」
「そんなんじゃねーよ――おい、そこの資料」
 はい、と松本が自分の机に置いてあった資料を渡す。
「あの娘の好きなものの中に、ご自分が入ってなくて残念でしたか?」
 悪戯っぽく笑みを見せて松本が問う。
 しかし返ってきた答えは意外なものだった。
「『それ』と一緒にはなんねーよ」
「『それ』って、の好きなもののことですか?」


 目の前に座る隊長が、家族同然の幼馴染たちを大切にしているのは知っていた。
 そして、件の少女をとても過保護にしているということも、最近わかってきた。
 綺麗な綺麗な人形のような幼い少女。
 人見知りの強い少女は、十一番隊 第四席という立場にありながらあまり人前に出ない。
 日番谷が心配するのも頷ける。
 少女のことをよく知る人間に聞くと、彼女も日番谷には懐いているらしい。
 そんな少女の好きなものの中に、彼が入らないとは不思議なことだ。


「あいつが、どうして『それ』を好きか知ってるか?」
 仕事をしたままで話をする日番谷に、松本も決裁済みの書類を確認しながら言葉を繋いだ。
「好きな理由、ですか? いえ、そこまでは……」
 そこで初めて日番谷が顔をあげて、自分の副官を見た。





「『自分だけの世界になるから』」
 林檎味の金平糖は、単純に可愛いからって理由だけどな。





 事も無げに言われた内容に、思わず松本の手が止まった。
「……な……んですか、それって……」
「言葉のままの意味だろ」
「……あんまり明るい発想ではない、ですよね」
「明るいとか暗いとかの問題じゃなくてだな――あいつの言うことや考えてることを難しく捉えすぎなんだよ。深い意味はないんだ」
 日番谷は説明し難いと言わんばかりの表情をした。
「価値観の違いってことですか?」
「価値観ではなく、視点の問題だな」
 生きていく上で、誰かに関わらず、また関わられずにいることは難しい。
 だから自分の時間くらいは、好きなことをして過ごしていたい。
「それだけなんだよ」
 そこまで言って、日番谷は扉を見やる。
 急に黙った隊長に松本が首を傾げると、まもなく入室許可を求める声がした。
 扉の向こうに気配を感じることはなかったが、声の主を思えば納得がいった。
「――失礼します」
 姿を見せたのは件の少女。鬼道を得意とするこの少女は、探査能力に秀でているだけでなく、自分の気配を消すことも得意なのだという。
 実にタイミングよく現れた少女は、日番谷に数枚の書類を手渡し、簡単に説明を施した。
 その書類に目を通し、日番谷は考え込みながら手元の書類を探り始める。


 日番谷の様子を見ていた少女が、おもむろに松本へと視線を向けた。
 絡んだ視線に何も言えずにいる松本に、は首を傾げた。
 その様子をちらりと見た日番谷が「松本、お茶」と催促する。
「あ、はい。すみません」
 慌てて動き出した松本の姿を、は不思議そうに目で追う。
「松本、今日は温めに淹れてくれ。はそこに座ってろ」
 かけられた声に日番谷を振り返って、がこくりと頷いた。
 松本が茶を淹れて戻ってくると、少女は姿勢よく窓の外を眺めていた。
「――ありがとうございます」
「どういたしまして。隊長もこっちで一緒に飲みましょうよ」
 日番谷の了承も待たず、松本は来客用の机に彼の湯呑みを置く。
 仕方なく席を移す日番谷だがその手には先程の資料があり、湯呑みを口に運びながら頁を繰っている。
 日番谷が黙っているので、奇妙な沈黙が落ちた。
 先程の会話のせいだろうか。松本も話題を振ることに躊躇していると。
「――松本副隊長」
 日番谷の隣に座す少女が、桜色の瞳で松本を見つめていた。
「なに?」
「――どうかされましたか?」
 そう問われてしまった。
 それほどにわかりやすく態度に出てしまったのか、と松本は自嘲したが、その理由を説明することなどできない。
 苦く笑うと、少女は再び首を傾げた。





「冴えた夜空に浮かぶ月、天地を覆う雨、やわらかく舞う桜吹雪、本の頁を捲る音、林檎味の金平糖」





 唐突に語られた言葉に、は日番谷を見つめた。
 めまぐるしく視線を移す少女に日番谷は心中で笑う。
「それこの前、松本副隊長に聞かれた……」
「同じことを今聞かれたら?」
 日番谷が何をしようとしているのか、図りきれずに松本はその様子を見守る。
「今?」
 は斜め上のあたりに視線を漂わせる。
「沈丁花の香り、日向ぼっこの膝枕、髪を撫でてくれる手。それから……桃の花と、桃の金平糖」
 先日と違う回答に意外そうな顔をした松本の向かいで、日番谷はうっすらと眉を寄せる。
「おまえなぁ……」
 言って呆れたようにため息をついた。
「隊長?」
 回答の違いと彼の反応に、松本が日番谷に理由を促す。
 日番谷は彼らしからぬ逡巡の後、「……最近、俺のしてやったことだ」と早口で言った。
 目を丸くした自隊の副隊長に、もうこれ以上聞くな、と無言で伝える。
 どうやら機嫌を悪くしたわけではなく、照れているだけだったようだ。


「つまりだな。こいつの答えに嘘はないが、絶対の言葉じゃねーんだよ。その時の気分でころころ変わる」
 お前が難しく捉えて、一線をひく必要はない。
 その言葉に、松本は更に目を丸くした。
 一線をひいたつもりも、ひくつもりもなかったが、この少年はそんな心配をしていたのか。
 話についていけない黒髪の少女は、両手で湯呑みを包み込んで成り行きを見守っている。


 この少女は彼にこんなに思われていることを、きちんと承知しているのだろうか。
「大丈夫ですよ。私、この娘のことにとっても興味があるんですから」
 ぱちりと瞳を瞬かせる少女に、
「あんたも。こんなに隊長に思われてるんだから、さっきの質問に『日番谷 冬獅郎』くらい言ってみなさいよ」
 からかって、そう言ってみれば。





「―― 一番好きなのは『日番谷 冬獅郎』ですよ」


 さも当然のように、桜色の瞳の少女は述べたのだった。

(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)