心を揺るがす、その一言
「あら、隊長。あそこにいるのじゃないですか?」
そう言って自隊の副隊長が指差したところにいたのは、確かに桜色の瞳が愛らしい幼馴染の少女。
春の日差しが穏やかな午後のことだった。
「」
隣を歩いていた松本 乱菊が少女の名を呼ぶと、少女――雛森 は、一呼吸分おいて静かに此方を振り返った。
へと足早に近付いていく松本の背を見ながら、日番谷 冬獅郎はその後をゆっくり追う。
振り返った少女が日番谷を見てわずかに瞳を細めたので、日番谷の普段は寄せられている眉根もやわく緩む。
「あんた、そんなところで何やってんの?」
「こんにちは、日番谷隊長――松本副隊長」
仕事中にしては柔らかい声に、の機嫌が良いことがわかる。
日番谷はの頭上を見上げた。
薄紫の花房が咲き誇る、藤の花。棚木にその幹を絡ませ、その花房を惜しげもなく少女の元へと差し出している。
風が通り抜け、さわり、と藤の花が揺れる。
の黒髪に落ちた藤の花房を摘み上げて、日番谷も眦を緩めた。
「もう咲いてたんだな」
日番谷の言葉に松本も頭上を仰いだ。
「綺麗ですねぇ。桜の時期は終わっちゃいましたけど、これで花見酒っていうのもいいんじゃないですか」
「お前は花なんかなくても、年中飲んでるだろ」
日番谷が呆れて言えば、松本が膨れてみせる。
「どうせ飲むなら綺麗な花を肴に飲んだ方が楽しいじゃないですか。ああ、隊長はいつも綺麗な花を侍らせてますから、他の花なんか目に入らないんですよね」
一瞬なんのことを言われたのかわからずにきょとんとした日番谷だったが、その意味を悟って思わず傍らに立つ少女を見る。
松本が言うところの『花』は、不思議そうに日番谷を見つめていた。わかっていないのだろう。
くすくすと笑う松本を日番谷が苦い顔で咎めると、「先に戻りますので、隊長はごゆっくり」と去っていった。
「いいの?」
桜色の瞳が問う。
風に揺れたのかんざしが、しゃらり、と鳴った。
「いい。戻ったところで、今日の隊首会の内容をまとめるだけだしな」
日番谷が手頃な草むらに寝転んでしまったので、も腰をおろす。
二人でぼんやりと藤の花を見上げていると、日番谷が口を開いた。
「相変わらず、花が好きだな」
「好きだけど……特別、花が好きなわけじゃないよ」
は意外に気分屋だ。綺麗な花や香りは好きだが、気分によって興味がわかない時もある。
「まあ、花だけじゃないか。空や月も好きだよな」
「一番好きなのは冬獅郎だよ」
なんの衒いもなく言われた言葉に、日番谷が苦笑いを返す。
言われ慣れた言葉は、しかし、いつも日番谷の心をざわめかせる。
「気分屋の言葉だから、あてにならねーけどな」
「冬獅郎っ」
珍しく咎めるような声音をあげた少女に、「悪かった」と笑った。
「冗談だ。知ってる」
―――俺の抱える「好き」とは違うのも、ちゃんと知ってる。
日番谷の表情には納得しないのか、わずかに眉を寄せている。
何か言おうと口を開けてはつぐむ少女に、日番谷は首を傾げた。
機嫌の良かった少女は一転、難しい表情になってしまった。
「……冬獅郎は花は嫌い?」
ようやく紡がれた言葉は、他愛もない質問。
「別に嫌いじゃない」
「なら、ピンクの花が好きでしょう?」
自分を見つめる少女の瞳と視線が絡み、ああ、と思う。
「そういえば、そうかもな」
その瞳と同じ色はわりと好きだと思う。
くくっ、と喉で笑う日番谷に、の眉はますます寄る。
「冬獅郎は、桃の花が一番好きだものね」
拗ねたように言われた言葉に日番谷は目を丸くしたが、傍らの少女はそっぽを向いてしまった。
がこんな風に拗ねるのは久し振りで、その言葉にどんな意味があるのか、都合よく解釈しようとする自分がいる。
「……違うぞ」
思わせ振りな態度をとる幼馴染に一言、言ってやりたいが、とりあえず此方を向かせるのが先だろう。
「」
名を呼んでもぴくりとも反応しない少女に、日番谷は仕方ないとばかりに口端をあげた。
の髪を飾るかんざしに手をかけると、結い上げられていた黒髪がさらりと落ちる。
それでもそっぽを向いたままの強情な少女の髪を一房すくうと、くい、と引いた。
渋々振り返ったの目の前で。
桜色の瞳から視線を離さずに、すくった黒髪にそっと接吻けた。
「一番好きなのは、桜の花だよ」
さて、少女はどんな反応を返してくれるのか――。