アリスの森

あなたに願うたったひとつのこと(後編)

 久し振りに聞いた彼の声。
 久し振りに見た彼の姿。
 あと足りないものは――。





「行ってしまったよ」
 日番谷の背を追っていた視線を傍らの藤の大木へと移せば、するりと黒髪の少女が姿を現した。
「――余計なことを」
 桜色の瞳が八尋をねめつける。その色合いは、怒りというより拗ねているのだろう。
「何のこと? 僕は松本副隊長への伝言を頼んだだけだよ」
 白々しい、とは口の中で呟いた。
 知っているのだろう。自分たちのこと、を。
「何があったかは聞いてないよ。ただ、キミが謎かけをしているということくらいかな」
 そっぽを向いているの様子に、八尋は控えめな笑みを浮かべた。
「見つけてほしいものは、言葉……いや気持ち、かな。藤の花になぞらえて、」
「――うるさい」
 なんでわかるのだろう。八尋は、が口に出さない言葉や感情の機微を巧みに拾い上げる。
 元来口下手な少女にとっては とても付き合いやすい存在であるが、先回りして読まれることに悔しさを感じる時もある。
「それで、日番谷隊長に何を言われたんだい?」
「――珍しい」
 めったに他人に干渉しない彼にしては、随分と踏み込んできたものだ。
 意外そうな表情を浮かべる少女に対して、「たまにはね」と返した。
「どうせ、誰にも話してないんだろう。溜め込むとキミは浮上するのに時間がかかるからね。南瓜相手だと思って吐き出してしまいなよ」
 そう言って八尋は頭上の花房を見上げた。
 促されたはしばらく黙って、足元に揺れる花影を見つめて考えていた。


「――桃の花より、桜の花の方が好きだと言われた」
 やがて訥々と語り始めたの言葉に、八尋はうん、と相槌を打つ。
「――桃ちゃんのことが好きなくせに」
「そうなのかい?」
「――だって、いつも桃ちゃんばっかり見てた。ちいさい頃から。今だって桃ちゃんのこと いつも心配してる。私、知ってるもの。冬獅郎は桃ちゃんが好きなのよ。なのに、あんなこと言うなんて」
 無表情に言い捨てるに、八尋は困ったように笑った。
「僕からすれば、日番谷隊長はキミのことばかり見ていると思うけどね」
「――手のかかる妹だったのよ」
「日番谷隊長はキミが好きだと言ったんだろう」
「――家族愛よ」
「意固地だね」
 ため息をついた八尋が、手を伸ばして藤の花房を手折る。俯いたままのの目の前に、その花房を差し出した。
 かすかに香る甘い匂い。
「あの二人が一緒にいると嫉妬してみせたのに。彼が好きだと公言してたのに。それでも拒絶し続けるのかい?」
「――だって、嫌なんだもの」
 何かが変わってしまいそうで嫌なのに。
「片恋で満足していた期間が長かったせいかな」
「――どうせ可愛くないわ」
 ぽつりとこぼされた少女の言葉に、八尋は「そんな風に思ってるのは、キミだけだよ」と笑う。
 は掌中に落とされた藤の花を、手持ち無沙汰に遊ばせる。
「――私はずっと前から好きだったのに。冬獅郎はそんなことにも気付かない」
 一番の不満は、そこなのだ。だから、気付いてほしい。
「難儀な子だね」
 笑みを含んだ声で言われて、優しい手に頭を撫でられる。
「――珍しい」
「あんまりがしょぼくれてるからね。友人としては慰めるくらいはするよ」
 八尋が触れるのも、名前を呼ぶも久し振りのことで、それほどに自分は気落ちしていたのかと少女は自嘲した。
「大丈夫だよ。日番谷隊長はきっと気付くよ」
 そうだといいけど、とは思った。





 仕事が終わった後に、日番谷は書庫へと足を運んだ。
 昼に八尋に言われたことが気にかかっていたのだ。

 ―――見つけなくちゃいけねーのが物じゃないなら、目に見えないもの……何かに気付けってことか?

 探している本が此処にあるのかも疑問だったが、わりと簡単に見つかった。

 ―――ふ……じ、藤、と。これか。

 辿った指先にある文字は『歓迎』『佳客』『恋に酔う』。
 最後の文字で指を止めた日番谷が、もう一度読み直した。
 『恋に酔う』
 まるで己のようではないか。
「花言葉なんて安易過ぎたか」
 それともの知らせたかったことはこれなのか。
「わからねーな」
 独りごちた日番谷の耳に静かな足音が聞こえた。
 こんな時間に調べ物とは大変だな、と顔を上げた日番谷の目に映ったのは昼にも出会った青年だった。
「お疲れ様です、日番谷隊長」
「ああ」
 嫌なタイミングで会ったと、日番谷は舌打ちしたい気持ちになった。
 八尋は昼に会った時と同じ、穏やかな笑みで歩いてきた。
 幸い薄暗い書庫と八尋との距離のおかげで、日番谷の読んでいる本までわからないだろう。
 早く立ち去れ、と願う日番谷に反して、八尋は3メートルほどの距離で立ち止まり書棚の本を手に取った。
 ぺらり、と紙の捲れる音が書庫に響く。
 沈黙が痛い。
 立ち去る気配を見せない八尋に諦めて、日番谷が手元の本を閉じようとした時。八尋が日番谷の名を呼んだ。
「日番谷隊長はのことをどう思っていらっしゃいますか?」
 唐突な質問に、日番谷はわかりやすく眉間を寄せて八尋を睨みつけた。
「お前には関係ない」
 一方の八尋は、やはり笑みを浮かべている。
 知っているのか、という疑問が日番谷の頭を過ぎる。ひょっとして宣戦布告なのか。
「日番谷隊長」
 この男に名を呼ばれるだけでも、苛々する。
「関係なくはないですよ。に対する好意はどういったものか、以前から気になっていたんです。それによっては僕の対応も変わりますから」
 にっこりと笑う八尋に、日番谷はぎりっ、と歯噛みした。
 やはり油断ならない男だ。
に手を出す気か」
「『お兄さん』の許可が必要ですか?」
 子ども染みた挑発だとわかってはいたが、かっと頭に血が上った。
「俺はあいつの兄貴なんかじゃねぇ。そんな風に見てない」
 たとえが自分のことを兄妹のように慕っているのだとしても。
 自分はそんな関係では納得できない。だからこの想いを告げたのに。
「……貴方がたはよく似ている」
 くすくすと八尋が笑った。嫌味のない様子に日番谷の熱が冷めていく。
「互いが互いに思い違いをしているから、見えるものも見えないんですよ」
 未だ肩を震わせる八尋に、毒気を抜かれたまま唖然とする。
「日番谷隊長のお気持ちがわかったことですし、ひとつ耳打ちいたしましょう」
 雛森四席には内緒ですよ、と笑って。日番谷の手元をまっすぐに指差した。
「『紫』の藤の花にこそ、意味があるんだと思いますよ」





 いつも騒がしい十一番隊舎だが、今朝は殊更 落ち着きがなかった。
 始業時間ギリギリに登局したの姿を見つけた隊士たちが、急かすようにを執務室へと追い立てた。
 廊下を歩きながら微かに甘く香るそれに、やちるが何かしでかしたかと嘆息する。
 しかしそれが濡れ衣だということに、間もなく気付かされた。
 上位席官が常駐する執務室の扉を開いて、は目を見開いた。
ちゃん、おはよう。ね、ね、すごいでしょー」
 唖然とするに、薄紫の陰から飛び出してきたやちるが飛びついた。
 その拍子に花瓶がひとつ倒れ斑目の怒声が響いたが、当のやちるは知らん顔。も目の前の光景に気をとられて、そんなことに構ってはいられなかった。
「――な、に、これ」
 執務室を彩る藤の大群。文字どおり、壁を埋め尽くす勢いで飾られている。
 そして香る甘い匂い。
「――ひょっとして、他の部屋にも?」
「あるよ。此処ほどじゃないけどね」
 綾瀬川が苦笑する。
「朝一で届いた、への贈り物だよ。贈り主に覚えは?」
「――とう、し、ろ、う?」
「ご明察。ほら、ちゃんとお礼しておいで」
 未だ呆けたように藤の花を見つめるの背を、綾瀬川がぽんと叩いた。
「――でも、」
「いいから行く」
「こんなに花を贈られて、女冥利に尽きるじゃねーかよ」
 ちょろちょろするやちるを捕まえて、斑目が揶揄い混じりに笑った。





 ひょっとして十番隊に行くべきだったかも。
 十一番隊の隊舎を飛び出したは、目的地まであと少しというところでそう思った。
 隊長という忙しい身の上で、引き継ぎやら緊急の書類やらのあるこの時間に暢気に外出できるわけがない。
 それでもあの藤棚にいると確信めいたものを感じて、は急いだ。
 はたして、日番谷は其処にいた。
「遅かったな」
 わずかに眉を寄せて立つ日番谷に、は乱れた息を整えながら彼に会うのは久し振りだ、と改めて思う。
「遅いのは冬獅郎の方じゃない」
 悔し紛れにそう言えば、「それもそうだな」と少年は苦笑した。
「あんなにたくさん……まさか瀞霊廷中の藤の花を買い占めたんじゃないよね」
「あー、花屋に卸されてる分じゃ足らねーから、朽木や京楽たちの屋敷からもわけてもらった」
「なっ」
 日番谷の言葉にが青ざめる。その様子に珍しいものを見た、と日番谷は思った。
「いくらかかったのよ。無駄遣い」
「……そういうこと聞くか、普通。いいんだよ、隊長職なんて稼ぐばかりで使う暇がない。精々惚れた女に使うくらいだろ」
 さらり、と言われた日番谷の言葉に事の起こりを思い出し、は思わず座り込んだ。
 膝に顔を隠してしまった少女の傍らに、日番谷は膝をつく。
「ちゃんと期限内だろ」
「…………見つけてくれた?」
「回りくどいんだよ、お前」
「冬獅郎が気付かなかったのが悪いんじゃない」
「悪かったよ。なあ、顔上げろって」
 は首を振った。素直に上げられるわけがない。
 すると日番谷の指先がこめかみを掠め、少女の黒髪をすくい上げた。日番谷の指が触れるとはぴくりと体を震わせたが、やはり顔を上げることはしない。代わりに赤い耳が覗く。

 久し振りに彼に名前を呼ばれた気がする。それだけで、不覚にも涙が出そうになる。
 でも恥ずかしくて、顔は上げられない。日番谷の顔をまともに見れない。
 尚も意地を張る少女の耳元に、日番谷は唇を寄せる。


「『貴方の愛に酔う』。俺も同じだって言ったら、今度は信じてくれるか?」

 いっそう赤く染まったの耳に、日番谷は音をたてて接吻けを落とした。

(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)