アリスの森

このままもう少しだけ

 以外を見るのなら、の姿ごとその瞳を覆い隠していて。





、そんなに顔を出してると濡れるぞ」
 背後から諌めるような声がしたが、雛森 は曖昧な返事をするにとどまった。
 相変わらず縁側にぺたりと座り込む幼馴染の少女に、日番谷 冬獅郎は読みかけの書物を傍らに置くと、自らも縁側まで出ていった。
 梅雨時にもかかわらず最近はずっと雨とは無縁の日々だったので、朝から降り続く雨は今までの分を取り戻すかのようだ。
 少女は飽きることなく久方振りの雨を満喫している。
「まるで蛙か蝸牛だな」
 斜め後ろ、わずかに上の方から齎された日番谷の呟きに、は首を傾げて振り向く。
 黒髪がさらり、と肩から滑り落ちるさまを見て、なんとなく日番谷はその双眸を伏せた。見慣れた光景ではあるのだが、目に痛いような気がしたのだ。
 すると――
「冬獅郎?」
 少女は桜色の瞳を瞬かせ、雨音に溶けるような声音で問いかけた。
 日番谷は心の中だけでため息をつくと、静かにその翡翠を開く。
「……なんでもない」
 自分ばかりが意識していて馬鹿らしいような気がする。
「そう?」
「ああ」
 気が済んだのか、少女が庭へと視線を転じると、飛石の上にちいさな雨蛙がちょこんと座していた。

 天を仰ぐように。
 雨を喜ぶように。
 ―――手の届かないものを請うように。

 日番谷が雨に濡れるちいさな雨蛙に意識を囚われていると、黒髪の少女は縁側のふちまでにじり寄り、雨の降りしきる庭へと身を乗り出していた。
「蛙」
「おい」
「ねぇ冬獅郎、ちいさい」
 日番谷の言葉少ない制止にも気付かず(いや、気付いているのかもしれないが)、は雨蛙をじっと見つめている。
「雨、喜んでるみたい」
「それは、お前の方だろ」
 深くため息を落とすと、日番谷は少女の傍らへと膝をつき、その身を少し引き寄せた。
 おとなしく引き寄せられたからは、いつもの柔らかな香に混じって雨の匂いがする。
「ああ、そういう意味」
 日番谷の先程の言葉に合点がいったようで、少女が薄く笑った。





 雨の音で目が覚めた明け方。隣の布団で寝ているはずの幼馴染は、すでに縁側へと座り込んでいた。
 無邪気に、というほど表情に変化があるわけではない。
 ただ、朝食以外の時間は此処から動かずにいるのだ。





「とう、しろう?」
「なんだ?」
 日番谷の両手がそっと桜色の瞳を覆い隠した。
 の不思議そうな声に、日番谷も静かに問い返す。されるがままでいる少女は、それ以上なにも言わなかった。





 どれくらい、そうしていたのだろう。実際には然程 長い時間ではなかったはずだ。
 見えない世界で、が何を考えているのかが気になった。

 ―――耳も塞いでしまえればいいのに。

 雨音さえも閉ざして、この手の感触だけで生きていてくれれば、日番谷の身に巣食う得体の知れないものは少しだけ治まる気がした。
「……雨の匂いがしないね」
 ふと、少女が呟いた。
「まだ降ってるだろ」
 外では未だ雨が降り注いでいる。
「そうだね。でも、」


「冬獅郎の匂いしかしないよ」


 雨に溶ける前に拾いあげた呟き。
 日番谷はそっと両手を離した。
 その身を離すと、ゆっくりと桜色の瞳が振り返る。
「もう、いいの?」
「……ああ」
 自嘲的な笑みを浮かべる日番谷の視界に、白い手が伸ばされる。
 そっと覆われた翡翠の瞳。
 ひやり、とした少女の手の感触。
「どうした?」
「このまま……」
 思ったよりも近くで聞こえる涼やかな声。
「私以外を見ないでいて」
 少女の言葉に日番谷が、くっと笑う。
「これじゃ、お前だって見えないだろ」
「それもそうだね」
「朽木との約束の時間になるぞ」
「うん」
 依然として覆われたままの少女の手をとらえて。
 日番谷は白い手に、そっと接吻けを落とした。

(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)