瑠璃色の空、あなたの声
夜空を彩る夏の花。
頬を撫でる涼しい風。
どこかで響く風鈴の音、と。
―――膝にかかる愛しい温もり。
「たいちょー、これで最後だそうです」
趣味良く設えられた和室。その中央に座する自隊の隊長の傍らに、松本 乱菊は抱えていた資料をどさりと置いた。
「ああ、こんなところまで運ばせて悪かったな」
読んでいた書類から顔を上げて、日番谷 冬獅郎は松本に労いの言葉をかけた。
「それはいいんですけど。隊長こそ、こんな日にまで仕事しなくたっていいじゃありませんか」
「そうもいかねーだろ。再来週までに纏めろ、って総隊長直々の御達しだぞ」
「まだ一週間あるじゃないですか。今日くらい――あんたもそう思うでしょ」
そう言って松本は座敷の奥、窓辺へ腰掛けて夕陽に臨む少女へと同意を求める。
松本の呼びかけに少女はゆっくりとした所作で振り返ると、その桜色の瞳に十番隊の二人の姿を映した。
「あんただって、今日くらい隊長とゆっくり過ごしたいでしょう? それなのに隊長ってば……」
「しつこいぞ松本。なにもお前に付き合えって言ってるわけじゃないだろ」
「そうですけど」
呆れて言う日番谷とごねる松本を眺めながら、雛森 は自分への問いかけに答えるべきか迷っていた。
他人と話すことが苦手なにとって、自分の操る言の葉が適切であるかどうか判断するのに時間を要する。その一瞬の間は、一対一で話す時には然程 気にならないが、松本のようにポンポンと進む会話相手ではタイミングが合わない時もある。
まぁ、いいか。と結論をだしたところで、日番谷の翡翠の瞳とぶつかった。あれは会話に参加しろ、という意味なのだろう。
浅く息をついては言葉を紡いだ。
「―― 一緒にいられれば何処だって構いません」
の落ち着いた声に松本が顔を上げる。
「――それに」
が空へと視線を移した。西の空をわずかに明るく照らす夕陽は、その姿を地平へと隠している。
橙と朱の混じる西の空が、鴇色を挟んで少しずつ紺と藍に染められていく。
は夕焼けと宵の入り混じるこの時間の空が一番好きだった。
その空もじきに夜へと変わるだろう。そうすれば――
「――此処からでも、花火は見えますから」
「本当に行かなくてよかったのか?」
日番谷の静かな問いかけに、西京焼きをつついていたは箸を止めて少年を見やった。
夕餉の膳に箸をつける日番谷の視線は、手元の書類に落ちたまま。普段なら片手間に食事することを良しとしない日番谷なので、その姿は大変珍しい。
口に入れてしまった魚を咀嚼しながらその様子を眺めているに、日番谷も答えを催促せずに黙々と食事を進めていく。
こくん、と飲み込んだところで、一際大きな輝きが夜空を彩った。
薄桃と紫の光、濃桃と黄緑の光、橙の光、黄色の光――代わる代わるに夜空を彩る花火に、桜色の瞳は釘付けになる。
先程から花火が上がるたびに箸を止める幼馴染の少女に、食事の終わった日番谷はため息をついて箸を下ろした。
「、箸を止めるな。花火を見ながらでいいから、食事しろ」
「冬獅郎、もう食べ終わったの?」
「ああ」
早いね、とが言えば、お前が遅いんだろ、と返される。
それに関しては多少の自覚があるので、は言われたとおりに白飯を口に入れた。その後で日番谷の問いかけに答えていなかったことを思い出したのだ。
「うん」
唐突に肯定の意を表したに、茶を飲みながら日番谷がちらりと視線を寄越す。何に対しての肯定かはわかっていたので、相変わらずテンポのずれた奴だな、と心中で思いながら先を促した。
「花火、綺麗に見えるからいいの」
「近くで見る方が綺麗だろ」
色や形だけではなく、音の違いや打ち上げられる花火の高低差などは、やはり近くでないと味わえないものだ。
「雛森と一緒に行ってくればよかっただろ」
「桃ちゃんといると五番隊の人に話しかけられるから」
花火も祭りも出店も好きだが、人で賑わう会場へ行くと誰かに声をかけられる。人見知りの強い少女はそれが嫌なのだと言う。
それについては日番谷も心当たりがあったので何も言わなかった。日番谷と一緒の時でも、十番隊の隊士に声をかけられるとは彼の後ろへと隠れてしまう。そして彼の袖を掴んで離さないのだ。
それが嬉しくて連れて歩いていたなどとは口が裂けてもいえないが、おそらく桃も同じ心境だろう。
黙りこんだ日番谷に首を傾げる少女へ「なんでもない」と答えて、日番谷は次の書類へと手を伸ばした。
―――あまりに子ども染みたやり口で、には絶対に言えないな。
静かな……というと語弊があるか。
さすが瀞霊廷でも名の知れた高級料亭だ。一部屋一部屋が離れになっているためか、客が道理を弁えているためか、耳障りな騒ぎが聞こえることはない。
薄く照明を落とした座敷には、遅れて響く花火の音と、日番谷の捲る紙の音だけが支配していた。
そんな中、窓枠に腰掛けて花火と湯葉を肴に手酌で日本酒を味わっていただが、最後の一口を飲み干すと猫のように足音もさせずにやってきて、日番谷の傍らにぺたりと腰を下ろした。
その様子を視界の端に収めていた日番谷は、書類を捲るのとは逆の手を持ち上げ、いつものようにそっとに触れ、その黒髪を撫でた。
「どうした?」
松本あたりが聞けばその柔らかい口調に目を瞠っただろう。
「花火、綺麗ね」
「そうだな」
「あのね、音も好きだわ」
「ああ」
「西京焼きも美味しかった」
「焼き魚 好きだからな」
「揚げ出し豆腐も」
「胡麻豆腐も好きだろ」
「うん。湯葉も好き」
「知ってる」
「風鈴の音とか」
「風鈴なんて聞こえたか?」
「聞こえるよ」
「ふぅん」
「廊下を歩く足音とか衣擦れの音も嫌いじゃない」
「ああ、たまに聞こえるな」
ぺらり、と頁を捲った。翡翠の瞳は依然として書類へ向けたままだが、は気にした様子もなく他愛ない話を続けていく。
日番谷が読み書きをしている時にが構ってくるのは大変珍しく、猫が甘えているみたいだな、と笑って触りの良い黒髪に指を絡めた。
「それとね、冬獅郎の声も好き」
意図の読めなかった一連の会話。
少女がくすくすと笑って言うので、日番谷は呆れたような表情をみせた。
「それだけのための会話かよ」
「『それだけ』じゃないよ。冬獅郎の声が好き、って言ったでしょ」
はごく自然に日番谷の膝に頭を乗せて、機嫌良く笑う。
「酔っ払い」
揶揄ってそう言えば、そんなに飲んでないもの、と返される。
「あれだけ飲めば上等だ」
あんなの飲んだうちに入らないよ、と笑う少女に、どんだけ飲む気だ、と呆れた。
撫でていた手を花火が見え難いだろうと離してやると、細い指先が引き止める。
日番谷の指に自分の指を絡めるようなその仕草に日番谷の眦もゆるんだ。
「相変わらずの甘えただな」
「冬獅郎が甘やかすから直らないよ」
の言葉どおり、日番谷が優しく黒髪を撫でる。は桜色の瞳をそっと閉ざした。
「これが読み終わったら相手してやるから、大人しく待ってろ」
「はぁい」
さらりと指先に絡めて黒髪を梳いてやりながら、この調子では読み終わる前に寝てしまうだろうな、と日番谷は笑みを零した。