ふわり、と溶ける夜の闇
夜空を飾るちいさな光たち。
夜空でどれほど輝こうとも、今宵の主役には到底敵うまい。
冴え渡る極上の月を見上げ、は機嫌よく杯を傾けた。
「シロ」
朝餉の席で少女が思い出したように箸を止め、対面に座する日番谷 冬獅郎を見た。
日番谷は食後の茶を飲みながら、視線を返すことで「なんだ?」と問う。
「遅くなりそう?」
「今夜か? 何もなけりゃ、いつもどおりだ。なにか……ああ、」
もうそんな時期か、と日番谷は納得した。
最近では黄昏時も早まり、朝夕はだいぶ涼しくなってきた。
「十五夜か」
「うん、中秋の名月だよ」
雛森 は楽しげにそう答えた。――もっとも表情にはあまりでなかったのだが。
思えばこの少女の好きそうな行事である。空や月を見上げてぼんやりするのは、少女の好きな時間の過ごし方のひとつだ。
「今日はやちる達と薄を取りに行ったり、お団子作ったりするの」
「……お前ら、仕事してるんだろうな」
日番谷は、今までにも何度かしたことのある問いを繰り返した。
それに対するの応えもいつも同じだ。少女はわずかに首を傾げて、「してるよ?」と至極 不思議そうに答える。
が決して不真面目というわけではないのは承知しているので、日番谷もそれ以上は追究しなかった。
ただ時々不思議に思う。同じ護廷十三隊なのに何が違うのだろう、と。
―――いや、松本も似たようなもんか。
考えたところで詮無きことだと、日番谷はため息をついた。
「ご馳走様」
先に席を立って食器を流しへと運ぶ。が「洗うよ」と言うので、「頼む」と返した。
朝は日番谷の方が先に出ることが多いので、このやりとりも いつものこと。
「帰りに酒買ってくる」
「早く帰ってきてね」
「……酒か?」
なんとなくそう切り返してみれば、少女はきょとんとした顔で「? 冬獅郎だよ?」と答えた。
今宵は秋の虫でさえ月見をしているのか。
そう思うほどに静かな庭先で、は風に遊ばれる自身の黒髪を押さえて宵闇の空を見上げた。
薄明が程なく宵の色に変わっていく。
はその移りゆく様子を眺めながら、早く帰ってこないかな、と銀髪の少年の帰りを待ちわびていた。
日番谷が帰宅すると家の中は、しんと静まり返っていた。
先に帰っているはずの少女の姿がない。
気配を辿っていくと、障子と蔀の開け放された縁側へと出た。
「」
庭に置かれたままの草履に足を通すと、屋根の上に向かって少女の名を呼ぶ。
すると一呼吸置いた後、黒髪の少女が「おかえりなさい」と少年を見下ろした。
「危ないぞ」
「大丈夫だよ」
言葉どおり危なげなく庭へと舞い降りたに、日番谷が「ただいま」と告げると、もう一度「おかえりなさい」と返される。
「遅くなって悪かったな」
日番谷の言葉に、はふるふると首を横に振った。
「ほら、約束の酒だ」
「あ、翠寿と得月」
解いた包みから出てきた日本酒に、幼馴染の少女は機嫌よく「冷やさなくちゃ」と台所へと向かう。
その後ろ姿に「やっぱり帰りを待ってたのは酒の方じゃねーか」と笑って言えば、「冬獅郎だよ」とも笑って返した。
縁側に設けられた、ささやかな祭壇。
薄の飾られた花瓶。
月見団子に、里芋や栗。
夏には見ることのできなかった、鮮やかな月。
それから、程よく冷やされた日本酒。
日本酒で杯を満たすと、はその水面に月を映して桜色の瞳を細めた。
その隣では日番谷が杯の酒をくいっとあおる。
「なんだか少し欠けてないか?」
が注いでくれる酒の、その面に映る月を眺めて言うと。
主語の抜けた日番谷の言葉にが、ああ、と答えた。
「満月は明日だから」
今日は幾望、と語るその涼やかな声が耳の奥に溶けた。
それでね、との語る他愛もない話を日番谷は静かに聞いていた。
その声が常より耳を魅了するのは、秋の虫の声がしないからか。それとも少女の声が機嫌よさげだからか。
「冬獅郎、聞いてる?」
「聞いてるって」
珍しく饒舌に語る少女に喉奥で笑うと、己の杯に月を映した少女が「月とお酒しか見てないでしょ」と拗ねた調子で言った。
いつだったか、月見酒をするなら杯の塗りは濃紺がいい、と少女は言っていた。月の御姿が殊更、映えるのだと。妙なところで拘るのが、この幼馴染だ。
「月と酒しか見てないのはお前の方だろ」
「私は冬獅郎しか見てないもの」
拗ねたままでは杯を干した。
杯を持つ少女の白い指先がやけに目につく。
「冬獅郎?」
その白い手から杯を取り上げると、の口から少年の名が零れた。
の指に自分の指を絡める。
自分とは違う華奢な指先は、それでも日番谷にはよく馴染んだ。
―――こうやって触れるのは初めてじゃないから、か。
薄く色づいた少女の爪に日番谷は指を滑らせる。
「爪、切ったんだな」
戯れに指先を交わらせたに、日番谷が手の甲に爪をたてられた記憶はまだ新しい。
それを見咎めた松本からは「……激しいですね」と見当違いな言葉を頂戴した。全くもっての勘違いだ。
この少女にそんな気など、さらさらないのに。
「……痕、消えてる」
「あの程度なら、すぐ消えるだろ」
月の光に照らされた少年の手には、その名残はもうない。
折角つけたのに。――と幽けき声で呟かれた少女の言葉は、日番谷の耳には届かなかった。
「」
名を呼べば交わる桜色と翡翠の瞳。
ゆっくりと瞬いた少女に、静かな声で「本当に?」と問うた。
日番谷の言葉がなにを指してのものか判じかねて少女が首を傾げると、結っていないの黒髪がさらりと肩から滑り落ちた。
「本当に……俺しか見てない?」
少し前の会話を引き出すとはもう一度ゆっくりと瞬いて、それから「見てないよ」と囁くように言の葉を紡いだ。
「本当に?」
繰り返し問うて、そっと少女の指先に接吻ける。
「本当だよ」
が日番谷の耳元に囁く。
なんとなく互いに秘め事を話すみたいに声音を落していた。
その声もじきに夜の闇の中に溶けていく。
「本当に?」
ならば――
もう一度 の指先に接吻けると、反対の手で少女の黒髪を梳く。
少女の耳に黒髪をかけてやり、ついでにその耳にも接吻けを落とす。
ちらりと見やった桜色の瞳には、拒絶の色も戸惑いの色も見られない。
ひょっとすると、わかっていないのかもしれないな、と罪悪感めいた感情もわずかに覗いたが、それもすぐに霧散した。
少女の頬に指を滑らせる。酒の影響か、常よりも体温が高いような気がする。
その滑らかな頬にも接吻けて。
わずかに仰向いた少女の頬に手を添え、日番谷はそっと顔を近付けていく。
近付く視界の端で、が桜色の瞳を閉ざしたような気がした。
リ―ン、リ―ン、リーン
それまで静寂を保っていた秋の虫達が、途端に鳴きだした。
その声に大きく肩を震わせた日番谷は、思わずから身を離した。
の瞳がきょとん、と日番谷を見つめている。
先程まで触れるか触れないかの距離にあった少女の唇に目がいき、居た堪れなくなって日番谷は勢いよく立ち上がった。
「酒、取ってくる」
空の銚子を掴んで足早に台所に向かう日番谷の背を見送って。
「冬獅郎の意気地なし」
の呟きは、静かな夜の闇へと溶けていく。
それを聞いていたのは中天にかかる幾望の月と、また静かになった秋の虫だけ。
傍らに置かれたままの氷を入れた桶から銚子を一本取り上げると、崩れた氷の欠片が からんと鳴った。