アリスの森

その瞳に映る世界


 その名を呼べば、少女は見上げていた月から視線を移す。
 その桜色の瞳に自分の姿が映る。
 少年はその瞬間がとても好きで、
 同じくらい不安に思う瞬間だった。


 あの月と同じように、自分の姿もその瞳に映らなくなってしまう、その時が。





 西流魂街1地区・潤林安。
 流魂街において最も治安の良い地区に日番谷 冬獅郎は住んでいた。
 初めは戸惑うことも多かったが、面倒見のよい老女の家族に迎えられ、それなりに穏やかに過ごしていた。
「シロちゃん」
 ある日、老女の使いに出た先で、一緒に住む少女に声をかけられた。自分より少しだけ年上の少女は、名を雛森 桃という。
「シロちゃん、おばあちゃんのお使い?」
「あぁ。客が来るっていうから、これ届けに行くんだ」
「じゃあ、あたしも一緒に行ってあげる」
「ガキ扱いすんな」
 他愛もない話をしているうちに長老の家に着き、桃は元気に挨拶をして戸を開けた。
 中にいたのは長老の他に、見慣れぬ隻腕の女性と座布団に座した黒猫。日番谷と桃は、女性のただならぬ気配に少し気後れする。
 すると長老が慌てた様子で桃を呼んだ。
「おぉ、よいところに来た。桃、ちょうどお前を呼びに行かせるところじゃった」
「あたしですか?」
「―――
 女性が縁側に向かって声をかけた。一同の視線がそちらへ向く。
 縁側にいたのは日番谷と年頃の変わらない幼い少女であった。黒髪を肩の上で切り揃え、背筋を伸ばして庭を見ている。

 もう一度名を呼ばれ、ようやく少女は振り向いた。その視線が隻腕の女性を捉え、次に促されるように日番谷と桃に向けられる。


 桜色の瞳が日番谷を見つめた。


 日番谷は息をするのも忘れて、その瞳に見入った。
 実際の時間はそれほど長くはなかったのだろう。何故なら桃が「ちゃん!!」と叫んで、件の少女へ走り寄ったからだ。
 抱きつかれた少女は困惑の眼差しで桃を見つめていた。





 その日から、日番谷の日常に桜色の瞳の少女が加わった。
 あの日、少女は良く通る声で、雛森 ――と名乗った。
 雛森 桃の妹。それについては桃が泣いて少女の手を離さなかったことからも容易に想像できた。
 流魂街は広く、死に別れた家族と再会できることは稀だ。がここに来たのは全くの偶然だった。桃の喜びはひとしおだろう。
 しかしの反応は微妙だった。桃を拒みこそしないが、態度がよそよそしい。
 そんなを、日番谷はいつも不思議な思いで見ていた。





 がやってきて三月みつきが経とうとしていた。
 は無表情で口数が極端に少ない少女だった。
 家族や近所の者と顔を合わせても、一定の距離をとる。子ども達で遊んでいても、が輪に加わることは一度もなかった。
 しかし、あからさまに避けることはなかったので、皆、あまりの愛想のなさに少女を持て余してはいたが、嫌われることはなかった。


「あれ? 桃、は?」
 いつものように子ども達の遊び場に集まった桃の横に件の少女がおらず、日番谷は辺りを見回した。は遊びに加わることはなかったが、遊び場についてきて皆が遊んでいる様子を見ているのが常だった。
ちゃんなら、今日は朝ご飯の後に出掛けたよ」
「あいつがひとりで出掛けるなんて珍しいな」
「そうだね」
 日番谷の言葉に、桃が顔を曇らせる。いつも明るい彼女らしからぬその態度に、日番谷は桃を窺った。
「……となにかあったのか?」
「…………」
「桃?」
「……ちゃん、あたしのことが……嫌い……なのかな……」
 桃の告げた言葉に日番谷は驚いた。
 桃は近所の子ども達の中では姉的存在で、明るい性格や面倒見の良さから大人からも子どもからも慕われている。その彼女が誰かに嫌われるなどとは、幼い少年には想像ができなかったのだ。
「あいつがそう言ったのか?」
 だとしたら一言、言ってやる気でいたが、桃は手を振って慌てて否定した。
「違うよ。そうじゃないんだけど……なんとなくぎこちないかなぁ、って思って」
 その言葉には日番谷も思い当たることがあるので、表情にこそ出さなかったが納得した。
「あんまりたくさんは話さないけど、話しかければ答えてくれるし、今日だって出掛けること、ちゃんと言ってくれたし。お使いもいつも一緒にきてくれるんだけど……」
 なんかね、よそよそしいの――そう言って笑う少女は、少し寂しそうだった。





 その日の晩は、美しい望月だった。
 うるさい程の月明かりに起こされた日番谷が何となく部屋を抜け出してみると、庭先の木に人影を見つけた。
 けして低くはない木の上にいたのは、黒髪を肩先で揺らす少女だった。
 こんな時間に起きているなんて、早起きの彼女にしては珍しい。
……?」
 縁側まで歩を進めて、躊躇いがちに声をかける。然して大きくもないその呼び掛けは、少女に届かないのではないかと思った。
 しかし――
 一呼吸分の後、少女は静かに振り返った。そして、あの桜色の瞳で日番谷を見つめる。

 今度は先程よりもはっきりした調子で呼ぶことができた。
「――……なぁに……?」
 瞬きもせずに、ただ日番谷を見下ろす。その姿は望月の明かりと合間って、ひどく幻想的で美しく見える。
 返事もせずに立ち尽くす少年に、は首を傾げた。さらり、と黒髪が揺れる。





 不意に月明かりが遮られ、闇が訪れた。





 少女の瞳が、意識が、そちらに向いてしまう気配を感じ、日番谷はそれを止めようともう一度名を呼んでいた。
 少女の瞳が未だ自分を映していることは、雲越しの薄い月明かりでもわかった。少年は安堵の息をもらす。
 何故だか、あの桜色の瞳が自分以外を映すのは嫌だと思ったのだ。
「――……?……大きな声だすと、みんなが起きるよ」
 静かだが良く通る声で我にかえり、庭へ降りて歩み寄った。の腰掛ける枝は、見上げると結構な高さがあった。
 大人しそうなこの少女がよく登れたな、と日番谷は思う。
「危ないぞ」
「――……大丈夫だよ、慣れてる」
 日番谷の言葉がすぐには理解できず首を傾げ、木登りについてだということに気付くと少女はそう答えた。
「何してたんだ?」
「――別に……見てただけ」
「何を?」
「――この目に見える世界を」
 ふうん、と日番谷は相槌を打つ。
 この少女とこんなに多く言葉をかわしたのは、初めてではないだろうか。自分の問いかけに答える様子が嬉しくて、もう一歩近付いた。
 高さがあるせいだろうか。日番谷が手を伸ばせば触れられそうな位置まできても、は避けずにいた。
「例えば?」
 先程の続きを促す。そこで初めて桜色の瞳が日番谷から外された。
「――月」
 少女の白い指先が夜空を示す。そして声にあわせて、くるりと指先が踊る。
「まぁるい月」
 すると雲が晴れて望月が姿を現した。あまりのタイミングのよさに、日番谷は目を丸くした。
「――流れる雲、風の動き、眠る猫、昨日落としたビー玉、提灯の明かり、水仙、つくし、梅、木蓮、沈丁花の香り」
 他愛のないものから、日番谷が気付かないようなものまで、一つひとつを指差しながら、静かにゆっくりと言の葉を紡いでゆく。その声は機嫌良さげに聞こえる。
 最後に庭の一画に植えられた木を示して、
「――桃の花。もうすぐ咲くよ」
 日番谷に視線を戻して、少女は表情を和らげた。初めて見たその表情に、日番谷は目を見張る。


 ―――もっと知りたい。


「今日は何処に行ってたんだ?」
「――……」
 はまた表情を変えた。微かに浮かぶのは緊張か困惑か。視線が僅かに動き、日番谷の斜め上を見る。多分、何かを見ている訳ではないのだろう。
 日番谷が黙って少女の様子を見ていると、が視線を戻して口を開いた。
「――散歩……それで、探してたの」
「探してた? 何を?」
「――静かな所……人のいない所」
「―――桃や俺達とは一緒にいたくないからか?」
 の言葉に、昼にした桃との会話を思い出し、つい責めるような口調になってしまう。
 今度ははっきりと緊張した表情を見せて、少女はぎこちなく首を振った。
 その様子に日番谷も冷静さを取り戻す。が泣いてしまうのではないかとも思った。実際に泣くことはなかったが。
「……風邪をひくぞ。そろそろ降りてこい」
 泣かなかったことにホッとし、ひとつため息をついて、少女へ手をさしのべた。
 がさしのべられた手と日番谷の顔を見比べて、身軽に木から飛び降りる。そして、白くて華奢な手をおずおずと日番谷の手に重ねた。
 日番谷はといえば、自分で手をさしだしたにも関わらず、が応じたことに驚いていた。少女の気が変わらないうちにと、手を握りしめる。



 未だ名残惜し気に望月を仰ぐ少女の名を呼び。
 その桜色の瞳が確かに自分を映しているのを確認して歩き出す。





 日番谷少年は冷えきった少女の手を引きながら、次にこの手を繋ぐにはどうしたらいいか、そんなことを考えていた。