アリスの森

彼が戻ったその夜に ~桜色の呟き~

 手をつないでくれるのも、わがままを聞いてくれるのも、とても不本意な理由からだと知っている。
 だから――
 嬉しいけれど、憎らしいのも本当のこと。





「この沈丁花、どうしたんだ?」

 文机の上に置かれた一輪挿しに一枝の沈丁花を見つけて、日番谷がそう聞いた。
 この邸の庭にも沈丁花はあるが、少女が今までその花枝を飾ったことなどない。
 少女の脳裏に一昨日の夜のことが思い出された。

 ―――言っちゃいけないのは「冬獅郎と似てる」ってことだから、これは言ってもいいの……かな?

「……貰った」
「―――その間はなんだ?」

 一秒にも満たない逡巡であったのに、日番谷は不可解そうに問い返した。
 どうしていつも気付かれるのだろう、と少女は不思議に思う。
 少女のことで日番谷にわからないことなどないのではないか、そう思う。
 足りない言葉や態度をきちんと見つけてくれる。

 ―――たったひとつの想いにだけ、気付かないのだけれど。

 そんな思考に捕われていると、少年のため息が落とされた。

「違うこと考えてるだろ」
「そう、かな?」
「そうだろ。もういいから、酔いが醒めてるなら風呂に入ってこい」

 こくりと頷けば日番谷に髪を撫でられた。

 ―――ほら、やっぱり。子ども扱いする。

 その優しさは、手のかかる妹に対するものだ。髪を撫でる手は大好きだから、何も言わないけれど。





 風呂上がりに、入れ違いで風呂に入る日番谷から「ちゃんと髪を乾かせよ」と言われるのは、少女にとって日課のようなもの。
 それに対して素直に頷く少女に、呆れた表情で「お前のそれは、あてにならねーんだよ」と少年が返すのも。

 今日も今日とて。

「先に髪を乾かせよ」

 後ろからかけられた日番谷の声に、生返事をして読んでいた頁を捲った。
 そうすれば、諦めた少年がため息をつきながら、長い髪を乾かしてくれることを少女は知っている。
 はたして頭を撫でるのと同じ優しい手つきで髪を乾かしてくれる日番谷に、本を読みながら口元が緩むのがわかった。
 妹扱いされているのだと承知しているが、少年の手を独り占めできる貴重な機会を逃さない程度には、少女はしたたかではある。
 そんな時、背後で盛大なため息が吐かれた。

「幸せが逃げるよ」
「誰のせいだ」

 あと少しで読み終わる本をぱたんと閉じる。

「私?」
「……別にお前のせいじゃない」

 くるりと振り返って翡翠の瞳を見つめると、日番谷は眉を寄せて困ったような顔をした。
 何故そんな表情を見せるのかがわからず、首を傾げる。

「もう寝るぞ」

 日番谷が立ち上がったので、少女は慌てて読んでいた本を片付けた。
 本を片付けた折にかすめた沈丁花の香りに、一瞬気をとられていると。

「一緒に寝るのは、今夜だけだからな」
「…………」
「おい、返事は」
「うん。(しばらくは我慢するから)今夜だけ」
「―――なにか別の含みがなかったか?」

 ふるふると首を振る。
 そして日番谷の布団の端でちょこんと待つ。

「ほら、早く入れ」

 滑り込んだ布団は、昨夜と同じように日番谷の香の匂いがする。
 でも昨夜と違うのは、近くに大好きな温もりがあるからだ。
 無意識に日番谷の胸もとに擦り寄ると、少年のため息が聞こえた。

「また」
「……お前がいつまでも甘えただからだろ」
「直んないよ」

 くすくすと笑っていると、日番谷の香が強くなった。
 躊躇いがちに抱きしめる日番谷に応えるように、少女もその背に腕を回す。
 まどろむ意識をさらに加速させるように、日番谷の規則正しい鼓動が眠りへと誘う。
 眠りの淵に沈みながら、少女は思った。

 ―――少しくらいどきどきしてくれたっていいのに……。


 日番谷の腕の中で安らかに眠る少女は、その後のことを知らない。