アリスの森

初春はつはるねが

 仕立てたばかりの着物を纏い、夜空の星を見上げて歩く少女。
 冬の空気で冷たくなった少女の手を繋いで歩くのは、自分だけの特権だ。
「冬獅郎、猫が引っ掻いたみたいな月」
 蜂蜜色の月を指さして少女が嬉しそうに日番谷を見つめた。





「あら、隊長。お出掛けですか?」
 就業時間を少し過ぎた頃、帰り支度を始めた自隊の隊長に松本 乱菊は声をかけた。
「ああ」
 そう答えた日番谷 冬獅郎は、護廷十三隊の隊長のみが許されている白い羽織を脱いで、白藍の羽織に袖を通している。
 椅子の背に掛けられている隊長羽織を松本が畳むと、日番谷から「悪いな」と礼を言われた。
 無愛想だが目下の者に対しても気遣いを見せる日番谷のこんなところを、松本はとても好ましく思っているので柔らかく笑んでみせた。
「年明け早々の外出相手は、可愛いあの娘ですか?」
「ああ」
 少し揶揄いを含んだ松本の問いかけに、しかし日番谷はたいして気にした様子もなくさらりと返す。
「……さり気なく惚気ましたよね」
「なにがだ?」
「いえ、自覚がないなら いいです」
 日番谷が十一番隊に所属する幼馴染の少女を溺愛しているのは承知している。
「あの娘も今日は仕事ですよね。十一番隊に迎えに行くんですか?」
「ああ」
「十一番隊まで一緒についていってもいいですか? ていうか、ついていきます」
 いそいそと帰り支度をする松本に、日番谷は訝しげに視線を寄越した。
「私もあの娘に新年の挨拶をしたいですし。大丈夫ですって。デートにまでついていったりしませんから」
「当たり前だ」
 不承不承という様子の日番谷を急かして、松本は執務室を出た。





「――松本副隊長、明けましておめでとうございます。昨年中は公私共に大変お世話になりました。隊は違いますが今年もよろしくご指導頂きたいと思います」
 賑やかに十一番隊の執務室を訪れた松本に、他人にはそうとわからない程度の戸惑いを見せたものの、件の少女――雛森 は丁寧に年始の挨拶をした。
「明けましておめでとう、
 一方の松本は常より長く話すに珍しいと思いつつ、屈託のない笑みを浮かべた。
「その着物、可愛いじゃない。良く似合ってるわ」
 日番谷を待っていたの装いはいつもの死覇装ではなく、鮮やかな赤地の上に白い文紗を重ねて仕立てられた着物であった。紗に透けて白地に浮かぶ赤や牡丹の柄がこれまた上品で、所々に施された蝶の文様が白く浮かび上がる様は少女を大人びて見せている。
 さすが日番谷隊長の見立てだね、と綾瀬川も楽しそうに笑う。
「あんたには何着せても似合うんだろうけど、そうしてると本当にお人形さんみたいねぇ。うちに持って帰りたいくらいだわ」
「人形遊びする齢でもねーだろ」
「何か言ったかしら、一角?」
「大体お前んトコなんか連れて行ったら、」
 松本と斑目の喧嘩腰のやりとりを見ていたが、「――あの」と控えめに口を挟む。
「この二人は放っといていいから。行っておいで、
 綾瀬川の言葉にそれまで騒いでいた松本がへと向き直る。
 そうじゃなくて、と相変わらずの表情で話す少女。
 笑えばもっと可愛いだろうに、と思いながら松本が続きを促すと。

「――ありがとうございます」

 やはり控えめな声でが礼を述べた。
 言い終わった後にあわてて外套を着るを、其処にいた全員が珍しそうに見やる。
 実際、珍しいのだ。人見知りがあり他人との会話が苦手なこの少女が積極的に発言するというのは。
 それも表情には表れなかったが、少し照れている。
 松本は声には出さずに、可愛いと叫んだ。その代わりに口から出た言葉は――
「隊長、やっぱりついていっていいですか?」
「いいわけあるか。、もう行くぞ」
 日番谷に手を引かれたは、挨拶もおざなりに扉の向こうへと姿を消してしまった。





、寒くないか?」
「大丈夫」
 すっかり暗くなった夜道を、日番谷とは大通りを避けて歩いていた。
 正月だからだろう。一本向こうの大通りはまだまだ賑やかで、初詣から帰る人と酒宴に向かう人の行き来があった。
「その着物、やっぱり青よりも赤を選んで正解だったな」
 何故だか機嫌の良さそうな声に、は空を見上げていた桜色の瞳を日番谷へと向けた。
「松本副隊長も」
 ん、とちいさく相槌を打つことで日番谷が先を促す。
「褒めてたね」
 の簡潔過ぎる言葉。少女が言いたいことはわかるが、日番谷はさらに先を促すよう静かに見返した。
「着物、随分褒めてた」
 すると、日番谷がため息をついた。
「違うだろ。あれは着物を褒めたんじゃなくて、お前に似合うって話をしてたんだろ」
「ああ、うん。それも言ってたけど」
 相変わらず自覚のない奴だな、と日番谷は少女を見つめた。わざわざ大通りから外れた道を歩いているのは、少女へと向ける視線が煩わしかったからなのに。
 視線の先で、かんざしから垂れる赤い蜻蛉玉がしゃらりと揺れた。


「シロ」
「なんだ?」
「さっきの変じゃなかった?」
「さっき?」
 どの『さっき』だろうと少し考え、の言わんとすることに思い至る。
「松本との会話か」
 が頷くことで是を示す。
「松本副隊長と一角が別の話をしてたでしょ? ちょっとタイミング外してたかと思って」
「いいんじゃないか、別に」
「そう?」
「ああ」
 そう、とはもう一度呟く。
「むしろ俺は、返事をしたことの方が珍しいと思った」
 常の少女なら、流れた会話を戻してまで返事をしなかっただろう。
 日番谷の揶揄いを含んだ言葉には一度 日番谷の顔を見やり、それから拗ねたようにそっぽを向く。ついでに繋いだ手も解こうとしたが、それを察した日番谷が強く握り締めたので離すことはできなかった。
「……シロが」
「俺が?」
「ちゃんと話をしろって言うから」
「お前が単語で話すからだろ」
「そんなのシロと……の時だけだよ。他の人とはそれなりに話してる」
 思わず出そうになった名前を、は寸でのところで飲み込んだ。日番谷の前で彼の話をしてはいけないと言われていたのだ。
 日番谷はの様子をちらりと見たが、飲み込んだ言葉については特に触れずにおいた。


 もともと人見知りのする少女は、他人との会話能力が極端に低い。
 別に語彙が少ないとか理解力がないとかいうわけではなく、単純に他人に理解してもらおうという意識が少ないのだ。
 今までは日番谷の独占欲を満足させていたが、最近になって少女のためにならないと考え始めた。


 当のはというと、特に不便もなく任務にも支障をきたしてはいないので問題視はしていなかった。
 彼女とて馬鹿ではないので、日番谷以外の人間とそんな会話が成り立つとは思っていない。


「必要がなければ話さないだろ。お前はもう少し人と会話をした方がいい」
「自分だって無駄口きかないくせに」
「何か言ったか」
「ナンデモアリマセン」
 またそっぽを向く少女に、仕方のない奴だな、と日番谷が笑う。
「ここから階段だから足元に気をつけろよ」
「うん。――でも、シロが言ってることもわかるから、今年は少し頑張ってみようと思って」
「前向きだな」
「それに、松本副隊長はシロの副官だから」
「頑張る相手は、松本限定かよ」





 最後の階段を上りきると広い境内に出た。
 石灯籠に仄かに照らされた参道を進みながら、「本当は冬獅郎がいれば、それでいいんだよ」とかそけき声で呟く。
 この少女はいとも容易く日番谷の決心を鈍らせてしまう。
「お前が初志貫徹できるように、俺の今年の祈願はそれにするか」
 日番谷が冗談めかして言うと、が繋いだ手をぐいっと引く。
「せっかくの初詣につまんないことお願いしないで」
「なら、お前はどんなことを祈るんだ?」
「『冬獅郎と離れないでいられますように』」
「……それって、わざわざ初詣で祈願することか?」
 今までもそうだったもの。――そう言ってはさっさと賽銭を投げてしまう。
 仕方がないので日番谷も同じように賽銭を投げて。





「―――おい、手を離さないと柏手が打てないだろ」
「『冬獅郎と離れないでいられますように』って言ったでしょ」


 ゆるく繋がれた手を離すことは容易いだろうが、少女が可愛いわがままを言うので、日番谷は手を合わせることは諦めて静かに瞑目した。