アリスの森

淡くとけゆく

 ぽつ ぽつ ぽつ
 軒を打つ音に、浅い眠りから意識が浮上した。
 降りだしたか、と日番谷 冬獅郎はぼんやりと思う。
 そういえば、あいつは傘を持っていっただろうか。つい気にかけてしまうのは、いつもの習慣だから。
 不規則に降っているはずの雨が規則正しく軒を打つ音に耳を傾けながら、静かに瞼を下ろす。
 朝 点けたはずの火鉢は消えてしまったのだろう。
 気温の下がった室内に、日番谷の重たい ため息が響いた気がした。





 眠りの淵から日番谷を揺り動かしたもの。
 それは額に当てられたひやりとした感触だった。
 ゆるゆると瞼を上げれば、其処には見慣れた少女の姿があった。
 眠っていたためか、はたまた室内が仄暗いためか。なんとなく視界のはっきりしない中で、日番谷は二度三度 目を瞬かせる。
 少女は出来の良い人形の如く静かに枕元へ座って、日番谷のその仕草を見つめていた。
 やがて、額に感じられた冷たい感触は離れていき、代わりに少女が微かに表情を緩めた――ように思う。
「目、覚めた?」
 視界の端に映る影に、額に当てられていたのが少女の手だったのだと知る。
「何か食べられる?」
 高くもなく低くもない落ち着いた声音で、が問うた。
「……いらねぇ」
 返事をしたが、うまく声が出せなかった。
 思いの外 掠れている日番谷の声に、が困ったように眉を寄せる。
 差し出された体温計で熱を測る。この体温計が少女の手に戻れば、さらに顔を顰めるのだろうと思った。
 はたして日番谷の予想どおりであった。
「熱」
 熱が高い、と言いたいのだろう。相変わらず言葉足らずでぽつりと呟くと、は日番谷の額に浮かぶ汗をそっと拭った。
「大丈夫だ」
「……大丈夫じゃなさそうだよ」
 いつも体調を崩して寝込むのはの方だ。滅多に熱など出さない日番谷だから、は心配そうに日番谷を見ている。
「元四番隊が風邪くらいで、なんて顔してんだよ」
「熱が高い」
 の主張に日番谷がちいさく笑う。
「誰かさんが熱を出すたびに心配する、俺の気持ちがわかったか?」
 思わぬ返しに、は反論できず黙り込んだ。
 我慢強いというより、どちらかと言えば鈍いというか。熱が出ても大人しくしていない、そんな少女に毎度悩まされている日番谷としては、いい機会だったかもしれない。
 分が悪いと感じたのか、は音もなく立ち上がると、薬湯をとりに台所へと行ってしまった。





 一人残された日番谷は目を閉じて、なんとなく耳を澄ませた。
 寝室から台所までは距離があるから、少女のたてる物音は聞こえない。
 眠る前に聞こえていた雨の音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 代わりに耳に入ったのは、しゅん しゅん、という空気のもれるような音だった。
 日番谷がなんの音だろうかと考えていると、襖が開いてが戻ってきた。
「? どうかした?」
「何か音がしてるだろ?」
 ああ、とが納得する。
「鉄瓶、だよ」
 がはい、と薬湯を差し出したので、日番谷も体を起こす。体を動かすと、熱のせいで節々が痛んだ。
 起き上がって部屋を見渡せば、なるほど、の言うとおり火鉢に鉄瓶がかけてある。
「お湯の音」
 先の言葉にが、もう一言付け加える。
 日番谷は受け取った薬湯に口をつけながら、「単語で話すなよ」と注意した。
 は単語ないしは短文で受け答えをする悪癖があるのだ。
「……火鉢に鉄瓶がかけてありますから、お湯の沸く音が聞こえてきますよね」
「なんで敬語なんだよ」
 仕方のない奴だな、と日番谷は薬湯を一息に飲み干す。飲み干してから、その苦味に顔を顰めた。
 いつもよりずいぶんと苦いんじゃないのか、これは。
 空になった湯呑みを渡しながらの顔を窺うと、微かに笑みを浮かべている。
「お前なぁ……」
「少し苦いけど、よく効くのよ」
 口直しにと淹れられた葛湯を一口飲む。
 先程よりも明るくなったの表情に、日番谷は「まぁ、いいか」と思うことにした。
 結局のところ、日番谷は幼馴染の少女に甘いのだ。





 薬湯を飲み終わった日番谷は、によって早々に布団の中へ押し込められていた。
 散々寝ていたので眠くはないが、起きていても辛いだけなので大人しく横になる。頭の下では手拭い越しに、ごつごつとした氷枕の感触がした。
「雨の音がしないな」
 日番谷の言葉に「寒い?」と見当違いな返事をしたが、日番谷の前髪を撫で上げる。
 ひやりとした指先の感触に思わず目を瞑った日番谷を見て、がそっと微笑む。
 そして、無防備に瞳を閉ざしている日番谷の額に、用意してきたものを乗せた。
 途端、ぴくりと日番谷が反応する。
 常々、の手を氷のように冷たいと評していたが、ふいに額にあてられた冷たさはその比ではない。急激に冷やされたことで頭痛が伴い、日番谷はわずかに眉を顰めた。
「ごめん、冷た過ぎた?」
 日番谷の様子に気付いたが、乗せたばかりの氷嚢を慌てて持ち上げる。
 痛みをやり過ごした日番谷が目を開けると、そこにはの心配そうな顔。
「一々、心配し過ぎだろ」
 手を伸ばしても少女の頬へは届かなくて、代わりに枕元に置かれていた左手をとらえる。
 冷たい指先に熱を分け与えるように緩く握ると、も同じように握り返してきた。
「何を入れたんだ?」
 額にあてられた感触は氷とは違っていた。
「これだよ」
 は繋いでいる日番谷の手に、手拭い越しにそっと氷嚢を触れさせる。
 さくりとした感触に、日番谷は目を瞬いた。この感触は――
「雪、か?」
 日番谷が驚いたことが嬉しかったのか、季節はずれの雪が嬉しかったのか。桜色の瞳に笑みを浮かべる。
「この春最後の雪」
「だから雨の音がしなかったのか」
 だから、は寒いかと尋ねたのか。
 今度は手拭い越しに氷嚢が乗せられ、程よい冷たさが日番谷の熱を冷ましていく。
「きっと積もるよ」
「そうか」
 瞳を閉ざせば、の声が心地良く耳に届く。
「冬獅郎」
 あれほど寝たというのに、急激に眠気が襲ってくる。
「雪が解けるまでは大人しく此処にいてね」
 のわがままとも言えぬような ささやかな願いに、日番谷は朧げな意識の中で返事を返した。