アリスの森

彷徨さまよいアリスが見たものは



 縁側でぼんやりする幼馴染の背に、日番谷 冬獅郎は訝しげに声をかけた。
 呼びかけに対して一呼吸分 遅れて反応するのは、この少女の癖である。
 今回も日番谷の呼びかけに、ゆっくりと振り返る。
 下ろしたままの黒髪が、少女の細い肩をするりと滑り落ちた。





「おはよう、シロ」
 畳の縁を踏まないように立つ幼馴染の少年に、雛森 は静かな声でいらえを返す。
「ああ、おはよう」
「うん」
 常以上に無表情な様子のに、日番谷は訝しげな色をさらに強め「どうかしたのか?」と問うた。
 いくらがぎりぎりの時間で登局しているとはいえ、この時間に支度をしていないのはとても珍しい。
 桜色の瞳がゆっくりと瞬いて日番谷の気難しい表情を見つめ、それから庭先へとそっと視線を逃がした。


 少女の瞳よりも濃い、牡丹色の着物と。
 かんざしの挿されていない、下ろしたままの黒髪。
 それから――
 少年に背を向けている、華奢な肩が。
 見慣れない朝の風景として、日番谷の翡翠の双眸に映った。



 白い足袋がその爪先に引かれた畳の縁を越えて、一歩 少女へと近付く。
「具合が悪いのか?」
 些かの心配を含んだ問いかけに、少女はふるり、と首を振って否定する。
 の背で黒髪が踊った。
 珍しいといえば、ぼんやりと庭を見つめているのに、纏う空気がやけにピリピリとしているのもそうだ。他所事には我関せず、なところのある少女にしては珍しい。
 昨夜、寝入るまでは少女の機嫌も 具合も悪くはなかったはずだ。では、起きてから何かあったのだろうか。
 結局、日番谷には思いつかず、ちいさく ため息をつくとの傍らに膝をついた。
 ころん、と寝転んだの黒髪が縁側に散る。
 子どものように体を丸める幼馴染に、日番谷はそっと手を伸ばした。


「冬獅郎」
「なんだ?」
 桜色の瞳に空を映して、少女が静かな声で続ける。
「何処か行こう」
「……非番じゃないだろ」
 唐突に齎された言葉に面食らいつつも、日番谷は当たり前の返事で返した。
 その裏で少女の真意を探る。
 とて十一番隊で四席を預かる身。たまに草鹿 やちる等と共に業務に関係のないことをする時もあるが、基本 与えられた仕事を放り出すような性格ではないのだ。こんな風に理由もなく休むことはなかったし、まして それを日番谷に強要するようなことは一度としてなかった。
「うん、だけど一緒に出かけよう」
「……どうしたんだ?」
 念のために確かめた少女の額は、常と同じ低い体温を日番谷の掌に教えている。
 そのことに安堵して、さらりとした少女の黒髪を撫でた。
「何処に行きたいんだ?」
「何処でもいいよ」
 誰もいないところがいいかも。――独りごちるようにが呟いた。





「風が気持ちいい」

 ここに到るまで一言も口を聞かなかった少女が、ようやく静かな声で呟いた。
 の静かな声に、日番谷は半歩後ろに立つ少女へと視線を向けた。
 少女の桜色の瞳は、目には映らない春の風を見ているようで――しかし、少女の纏う気配に穏やかさが混じったのを感じて、日番谷は少しだけ安堵し、ちいさく息をついた。
 わざわざ瀞霊廷を離れて、西流魂街にある静かな湖畔まで来たかいがあったというものだ。
 本来なら少女のわがままを諌めるべきであると、日番谷もわかってはいた。だが、護廷十三隊の隊長職を預かる日番谷が、これに是と答える程には珍しい事態である。
 詳しく語らなかった日番谷の急な申し入れを、己の副官である松本 乱菊も珍しそうに聞いていた。そうしながらも快く了承してくれ、今に至るのだ。


 そうして、しばらくは風に混じる春の気配を感じていただったが、やがてふわふわとした足取りで湖の縁へ近付くと静かに膝をついた。
 その心許ない足取りに日番谷は眉を寄せる。どこか浮き世離れしたところのある この少女だが、今日の不安定な様子はどうだろう。
「……落ちるなよ」
 いろいろ考えてみたが、結局ありきたりな言葉しか言えない自分にため息がでた。
「大丈夫だよ」
「そうか」
「うん」
 水面を見つめたままの背を見やって、日番谷は適当な草むらに腰を下ろした。
 まるで出会ったばかりの頃のようだ、とぼんやりと思う。何を不安に感じているのか、言ってくれればいいのに。――気付いてやれればいいのに。
「どうかした?」
 いつの間にか、桜色の瞳がこちらを見ていた。
「お前が悩ませてるんだろ」
「仕事を放り出したりして、さすがに呆れた?」
「珍しいとは思ってる。――ちょっとこっちに来い」
 は気にならないのだろうか。二人の間にあるこの距離が。ほんの3メートル、しかし会話をするには少し遠い。
 日番谷の呼び掛けにはことり、と首を傾げた。

 名を呼ばれれば、少女は従うしかない。それは、日番谷にも言えることだ。
 やはり、ふわふわとした足取りでやってくると、日番谷の傍らにころりと横になる。
 着物や髪が汚れるのも厭わず身を丸める幼馴染に、相変わらず無頓着な奴だな、と思いながらその黒髪をそっと撫でた。
 ちらりと視線を向けただけで、は何も語らない。常ならば甘えて擦り寄ってくるのに、今日に限っては懐柔される気はないらしい。本当に頑固だ。
「どうしたんだ?」
 本日 何度目かになる日番谷の問いかけも、爽やかに吹く風に流された。
、言わなきゃわからないぞ」
「……本当に、何もないよ。……ただ……誰とも一緒にいたくなかっただけ」
 そう呟いたきり、は桜色の瞳を瞼の裏へと隠してしまった。





 西の空が橙色に染まる頃。
 少年の袖がちいさな力でくいっと引かれ、日番谷は傾きかけた陽射しの下で読んでいた書物から傍らの少女へと視線を移した。
 眠っていたのか、ぼんやりしていたのか。今の今まで 横になったまま微動だにしなかった少女の左手が彼の袖を握りこんでいる。
 桜色の双眸は自分の左手と その手が握っている日番谷の袖だけを映していたが、やがて のろのろと視線をあげると、自分を見下ろす翡翠の瞳とかち合った。
「お腹、すいた」
「だろうな」
 朝食の後にすぐ此処へ来て、昼も食べずにいたのだから。
「食べて帰るか。なにが食いたい?」
「魚。山河焼き」
「それと、日本酒か?」
 揶揄いまじりの日番谷の言葉に、は一瞬きょとりとした後、わずかに目元を緩めて頷いた。その反応に日番谷は胸中でほっと安堵の息をついた。
「ほら」
 立ち上がった日番谷が、いつものように左手を差し出す。
「うん」
 差し出した手に大人しく重ねられた、の華奢な手。


 結局のところ、が何を思って このようなわがままを言い出したのか、日番谷には全く見当がつかなかった。それどころか、それが解消されたかすら わからない。
 しかし、今はそれでも構わないと思っている。
 何も言ってはくれない、気付いてやることすらできない。
 ―――そんな蟠りと引き換えに手に入れたもの。

『誰もいないところがいい』
『誰とも一緒にいたくなかった』

 そう呟いた愛しい少女。
 眉を顰めるような言葉ですら、日番谷の独占欲を満たしてゆく。
 が拒否した『他人』の中に、自分は含まれていないのだ。





「冬獅郎?」
「なんでもない」
 自分の薄暗い考えに自嘲の笑みが浮かぶ。時折 現れては消えるこの考えを振り切るように、日番谷は繋いだ手を強く握りしめた。