雨の中にひとしずくの愛
ぽたり、ぽたり 雨の雫
くるり、くるり 回る傘
今日も降れふれ 銀の雨
「――明日も降ればいいのに」
脈絡もなくぽつりと呟かれた言葉に、綾瀬川 弓親は書類から顔をあげて声の主を振り返った。
振り返った先――背後で開け放たれた窓枠に腰掛けている十一番隊 第四席の少女は、此方に背を向けたまま雨で白く煙る空を見上げていた。
「あまり雨ばかり続くと、副隊長が暇を持て余して困るけどね」
暇を持て余した草鹿 やちるが隊舎内の壁に盛大な落書きをして、この少女に叱られたのは今朝の話だ。斑目にどやされて口を尖らせているところに少女がやってきて、必死に落書きを消している隊員たちを一瞥した後、「――やちる、自分で消しなさい」と静かに言い放ったのである。
苦笑まじりの言葉に少女がちらりと綾瀬川を見やったが、すでに彼は書類へと視線を戻していた。
雨が降っていても外で遊べばいいのに。少女はそう思っているのだろう。
現に割り当てられた分の書類を早々に片付けた少女は、先程からずっと窓枠に腰掛けて雨が降るさまを眺めている。窓の外に投げ出した足をぶらぶらと揺らしながら。
たまに足を伸ばしてみるが、庇から落ちる雨だれには わずかに届かない。
控えめな雨と大きく張り出した庇のおかげで濡れることはないだろうと、綾瀬川は少女の好きにさせておいた。
しとしと、と優しい音をたてて雨は降り続ける。
「」
綾瀬川の呼びかけに、雛森 は一呼吸分おいて静かに振り返る。
「この書類、他の隊に届けてきて」
連日の雨のおかげか、珍しく十一番隊の書類は滞ることなく片付けられていた。
「傘を差さないと叱られるよ」
雨明かりの空を見上げている小柄な後ろ姿に声をかければ、予想していたのだろう。ちいさく ため息をついて、やがてゆっくりと振り返った。
八尋を見つめる桜色の瞳に、不服そうな色がわずかに滲んでいる。
「降りが弱いとはいえ、傘も差さずに歩いたら濡れてしまうよ」
桜色の瞳の少女が好んで使う、人通りの少ない六番隊の回廊。
八尋は二階から続く階段を下りると、軒下の雨があたるか あたらないかのところに立つ少女へと微笑んでみせた。
「――わかってる」
聞き分けの良い返事をしただが、雨を好むこの少女のことだ。八尋が声をかけなければ雨の中へと一歩を踏み出していたに違いない。
「そうかい? 君はすぐに体調を崩すのに、懲りずに雨や雪の中へ飛び出していくからね。周りは目を離せないんじゃないかな」
日番谷はもちろんのこと、十一番隊の綾瀬川や斑目。少女の姉である雛森 桃もそうだ。
それから――
「朽木隊長も気にかけていらっしゃるよ」
八尋の言葉に桜色の瞳を二度 瞬いた後、はちいさく首を傾げた。
「ずっと以前、土砂降りの夜に傘も差さずにいたところをお会いしたんじゃなかったのかい?」
「――あぁ」
思い出したらしい少女は「――朽木隊長は」と言葉少なに紡ぐ。
「お元気だよ」
「――そう」
表情を映さない人形のような面を見下ろして、八尋は珍しいと思った。
自隊の隊長が他の隊の者を気にかける事自体も珍しいが、他人に無頓着なこの少女がそれなりに興味を示すことも大変 稀なのだ。
「朽木隊長がどなたか わかってるよね?」
念のために、六番隊隊長の顔と名前が一致しているのか確認してみると、はあからさまにムッとした様子で八尋をねめつけた。少女のこの表情も珍しい、などと八尋はのんきに思う。
「――馬鹿にしてる?」
「念のため、だよ」
気を悪くしたならゴメンね、とにこやかに謝罪する八尋に、もそれ以上は追及しなかった。
細く空から落ちる銀の雫は、庭の片隅にひっそりと咲く紫陽花を濡らし続ける。
「――せっかく降ってるのに」
やはり雨明かりの空を見上げてそう独りごちた少女に、八尋は呆れたように ため息をついた。
「傘を差さないと叱られるよ」
銀の雫を受けきれなくなった紫陽花の葉が揺らぎ、ぼたぼたと重たい音をたてて雨雫は水たまりへと落ちていった。
「雛森くん、あそこにいるのくんじゃないかい?」
ふいに立ち止まった吉良 イヅルの言葉に、雛森 桃も足を止めた。
紫の和傘のふちを上げて吉良の見つめる先に視線を向ければ、なるほど、自分の妹が姿勢良く歩いている姿がある。
「ちゃん」
雨の音にかき消されないように、少し大きめの声で桃は妹の名を呼ぶ。
おそらく呼ばれる前からふたりの存在には気付いていたのだろう。迷わず此方を見たに桃がちいさく手を振った。
「――桃ちゃん」
ぬかるんだ地面を危なげなく駆け寄ってきたは、桃と吉良の前に立つと「――こんにちは」と丁寧に挨拶をした。
相変わらずの無表情ではあるが、普段ゆっくりとした所作のが駆け寄ってきたところを見ると、今日はずいぶんと上機嫌なようだ。
「あれ? ひょっとして、ふたりの傘って色違い?」
桃の差す紫の和傘と、の差す朱の和傘。どちらも細めの中入りと、白抜きの蝶が一羽描かれている蛇の目傘だ。
「そうなの! 南三条にある和傘屋さんで頼んでおいたのが先週出来上がったの」
傘の色から千鳥掛けの色糸、大きさまで好みに合わせて仕上げてくれるこの和傘屋は、の贔屓にしている店。
特注となると多少値が張るものの、丁寧に仕上げられた蛇の目傘は可愛い妹と揃いの柄なので、最近の桃の気に入りである。ついでに言えば、一緒についてきた日番谷がいつの間にやら二人分の支払いを済ませていたという曰くつきでもある。
「最近は雨ばっかりだけど、この傘を差して出掛けるのが楽しみなの」
嬉しそうな桃の声に応えるように、三人の和傘がにぎやかに雨の音を奏で続ける。
「造りも丁寧だし、綺麗な模様だね。ふたりに良く似合ってるよ」
朱色越しに仰ぎ見た空は、朝よりもくすんだ色味を増していた。
「ありがとう、吉良くん」
にこにこと楽しそうに話すふたりの横で、この人は意外に女の扱いが巧いのかもしれない、とが思っていたのは内緒の話だ。
「また、雨の音を聞いているのか」
問いかけるでもなく、確認するでもなく。
夕暮れにさしかかる頃。降りしきる雨の中に見えた朱色の和傘に声をかけると、少し間をおいて十一番隊に所属する少女が振り返った。
傘の角度が変わったことで白い蝶が姿を隠す。代わりに現れた桜色の双眸が朽木 白哉を捉えた。
「――何故、わかったのですか?」
白羽織の裾を汚さぬよう優雅に捌きながら少女へと近付くと、それを待っていたようには良く通る声で問い掛けた。
「以前、そう言っていただろう。雨の音が好きなのだ、と」
少女の問い掛けに当然のように答えれば、は「――いえ、そうではなく」とゆっくりと言葉を紡いだ。
「――何故、私だとわかったのですか?」
の言葉にああ、と合点がいく。
「ここ数日、六番隊の隊首室からも赤い蝸牛が散歩する姿が見えていた」
「――あかい、」
少女は己の差す朱色の和傘を見上げる。
「――かたつむり」
そう呟いた後、がわずかに表情を和らげた。
「――冬獅郎にも言われたことがあります。蛙か蝸牛みたいだ、って」
「そうか」
の表情はすぐ元に戻ってしまったが、年相応の子どものように くるりと傘を回した。
朽木邸の庭でも何度か見かけたことのあるその姿に、朽木 白哉も穏やかな心持になる。
「そういえば、屋敷の紫陽花が見頃だ。日番谷隊長には伝えてあるが、近いうちに見に来るといい」
大粒の雨がひっきりなしに水たまりを打ち続ける。
「――ありがとうございます」
礼を述べ、次いで辞去の言葉を口にしたの和傘から、絶え間なく雨が伝い落ちる。
「くれぐれも傘を差して帰るように」
朽木の言葉に一瞬目を丸くしただったが、桜色の瞳で彼を見返すと素直に頷く。
人見知りが強いと聞き知る少女だが、今宵は珍しく口数が多かった。――六番隊の隊長がそう思っているうちに、の姿は白く煙る雨の向こうへと消えてしまっていた。
ふと、読んでいた本から顔を上げ、日番谷 冬獅郎は耳を澄ます。
ぱたぱたぱた ぱたぱたぱた
やはり、屋根を打つ雨音が強くなっていた。
幼馴染の少女は未だ帰らない。日番谷から重たいため息が零れた。
最近の十一番隊は特に忙しくはないはずだから、急な残業ということもないだろう。
ならば少女が戻らない理由は、夜の散歩だ。
今宵は風がないから雨を楽しむには ちょうど良い。月は見えないが、雨の音や濡れて咲く花々を愛でながらの散歩は幼馴染の少女の趣味とも言える。
それに新しい和傘を仕立ててから少女が濡れて帰ってきたことはないので、そろそろその心配もしていたところだった。
仕方ない、と本を閉じて日番谷は立ち上がる。
薄い羽織を引っ掛けたところで、からり、と玄関の開けられる音がした。
「ただいま」
次いで、良く通る声が帰宅を知らせる。
玄関まで出迎えれば、ちょうど和傘の露払いをした幼馴染の少女が其処にいた。
「おかえり」
「シロ、何処かにお出掛け?」
外出の装いの日番谷に、がことり、と首を傾げる。
「雨が降ると、うちの蝸牛はなかなか帰ってこないだろ」
呆れて言う日番谷に、はくすくすと笑いながら雫のついた指先をちいさく振って払う。
日番谷はその濡れた指先を捉えると、手拭いでそっと拭った。
「ありがとう」
指先と足袋以外に濡れた様子はなく、朱色の和傘は今宵もその役目を無事に全うしたようだ。
ぽたぽたと雫を落とす吊るされた朱色の和傘と、雨に汚れた草履。
上がりかまちに腰掛けたの手が足袋にかかるより先に、日番谷の腕が少女を抱き上げる。急に訪れた浮遊感には思わず日番谷の首にしがみついた。
「な、に?」
「折角拭いた指がまた汚れるだろ」
日番谷のよくわからない理屈に、「そうだけど」と不思議そうに応える少女の声が耳の近くで聞こえる。
普段よりも近くで聞こえる声は、日番谷を少しだけ特別な気分にさせた。
「そういえば、朽木が紫陽花が見頃だって言ってたぞ」
「うん、聞いた」
「珍しいな。会ったのか?」
「帰り道に。赤い蝸牛だって」
「? ああ、傘の色か。――よっ、と」
風呂場の戸を開けると、をそっと下ろした。
「とりあえず、お前は風呂だ。あまり浸かり過ぎて茹だるなよ」
「うん」
「それと――」
少女の黒髪を彩るかんざしを引き抜く。
「明日も雨なら迎えに行くから、十一番隊で待ってろ」
きょとんとした桜色の瞳が、すぐに笑みを浮かべる。
接吻けのひとつでもすればよかった、と思ったのは風呂の戸を閉めた後。
その手に握ったかんざしを揺らせば、ちいさな鈴がりぃん、と鳴った。