アリスの森

真夏の氷中花

 ―――暑いなぁ。

 地面に映る影を眺めながら、は差していた日傘をくるりと回した。
 いつもの和傘とは違う柔らかな曲線を描くシルエットが気に入って、二度三度 回してから桜色の瞳を白い日傘へと上げてみる。其処には影と同じ丸みを帯びたレース遣いの傘のふちがあった。
 レースのふちの向こうには、言葉どおりの青い空。
 そして、白とも黄色とも形容し難い太陽の陽射し。
「暑いなぁ」
 今度は口に出して言ってみると、通りの向こうから涼やかな音が聞こえてきた。





 からり、と玄関を開ける。夏の陽射しに慣れた目には薄暗く感じて、雛森 は二度 瞬きをした。
「ただいま」
 誰に向けてということはなく日頃の習慣でそう声をかけてみるも、いつもなら出迎えてくれる幼馴染の少年のいらえはなかった。
 珍しい、と思う。
 気配はするので家にはいるようだが、自分の声に幼馴染が反応しないのは珍しかった。
 家の中に居る彼の霊圧を探るのに、然程の労力は要らない。庭に面している部屋、彼が普段 仕事をする時に使っている部屋の方だ。
 まっすぐ平行に張られた板目のひとつを目印にして、戯れにその板からはみ出さないように歩いてみる。の足では板幅の方が広いので、別段 難しくもなかった。
 こんなことをして遊んでいると、「足元ばっかり見て、なにやってんだ?」と幼馴染の呆れた声が聞こえてきそうだ。――実際のところ、そんな声はしなかったが。

 ―――つまんないの。

 家に帰ってきたのに、家にいるのに、顔を合わせない。少しも構ってもらえない。
「なに、してるんだろ」
 はやっぱり板目からはみ出さないようにして、少しだけ歩く速度を速めた。





 中天からわずかに傾いた太陽の陽射しが照らす縁側に、読みしの本と 麦茶の入った硝子のコップが置いてあった。
 半分ほど残されているその麦茶は、おそらく氷が溶けてしまったのだろう。硝子の表面に浮いた水滴が縁側を濡らしている。
 廊下の板からゆっくりと右足を離して畳を踏む。
 陽射しのあたらない室内の畳は、縁側よりも涼しい感触をの素足に伝えた。


 彼 は 、其 処 に い た 。


 部屋の片隅、障子の陰に、寝入る日番谷 冬獅郎の姿があった。
 おそらく最初は縁側に寝転んでいて、照りつける陽射しから意識してか無意識にか障子の陰に逃げ込んだのだろう。
「……冬獅郎」
 彼を起こすつもりはないが、はその名を呼んでみる。
 いつもならその翡翠の瞳を開いて どうしたのかと聞いてくれるのに、日番谷の眠りは深いようで目を覚ます様子もない。
 日番谷の寝顔を見るとぎゅっと眉を寄せたままで、寝ていても気難しい表情をするなんて とても彼らしい。きっと暑いんだろうなぁ、とは頬を緩めた。
 自分は暑いとか寒いとか、そういったことに疎いらしい。幼馴染の少年や同じ隊の悪友にはそう指摘される。
 その自分が今日は暑いと感じるのだから、夏が苦手な日番谷には殊更 堪えるに違いない。
 無防備に眠る日番谷を眺めるのは自分だけの特権かもしれない。
 そんな優越感が胸中に染み渡るのを自覚しながら、は日番谷のこめかみに伝う汗をハンカチでそっと拭った。





 だるような暑さの中で、そよそよと涼しい風を感じる。
 心地良いその風にまどろんでいた意識が覚醒していき、視界に映る自宅の天井を眺めながら、ああ、眠っていたのか、とぼんやりと思った。
「シロ、起きた?」
 聞き慣れた声に首を巡らせれば、すぐ側には幼馴染の少女の姿があった。
 普段とは違うワンピース姿で、緑の畳に白いスカートの裾が広がっている。
「寝てたね」
 どこか楽しそうな少女に、あぁ、と返す声が掠れる。
 少女の扇ぐ風が心地良くて、日番谷はもう一度 目を閉じた。


「暑いね」
「暑いか?」
 呟きにも似た言葉に日番谷がそう聞き返したので、は首を傾げた。
「暑くない?」
「いや、暑いだろ」
 ますますもって彼の言葉に首を傾げるに、閉ざされていた翡翠の瞳が開く。
 の不思議そうな表情に、日番谷が微かに笑みを浮かべた。
「お前でも『暑い』って思うんだな」
「あぁ、」
 そういうこと、とは納得する。
「暑いよ」
「お前がそう言うなら、よっぽどなんだろうな」
 日番谷は体を起こすと団扇をひょいっと取り上げて、先程までがそうしていたように ぱたぱたと扇いだ。そよぐ風にの黒髪が微かに揺れる。
 自分の方こそ、この暑さに参っているだろうに。言葉にはされない日番谷の優しさに、はくすぐったそうに笑みを浮かべた。


「シロ、寝てるのに眉 寄ってたよ」
 膝を進めて腕を伸ばすと、は人差し指で日番谷の眉間に触れる。
 暑かったからな、と返す日番谷を見つめたままはもう一歩膝を進め、濃紺の着物と白いワンピースの裾が触れ合う距離まで詰め寄った。
 依然として日番谷の右手は団扇を扇いでいるが、その翡翠の双眸には不思議そうな色を宿している。
 しかし、こういう時の彼がなにも言わないで、自分の好きなようにさせておくのをは知っていた。呆れた顔をされても ため息を吐かれても、拒まれたことなど一度もない。
 日番谷の眉間から指を離すと、白い指先がついっと日番谷の首筋をなぞる。
 そのまま指を滑らせていき、わずかに骨ばった鎖骨を通り過ぎ、肌蹴た衿のあわせから覗く肌では指を止めた。
 桜色の瞳は未だ翡翠の瞳を捉えたまま。
 不思議そうな色は鳴りを潜め、少しだけ、ほんの少しだけ日番谷が体を硬くしたのがわかった。
 そんな日番谷を見つめながら、このまま爪をたてたら流石に怒られるかなぁ、とは考える。以前、手の甲に爪をたてた時は呆れた顔でお小言を頂戴した程度だったから、今回もその程度かもしれない。
 逡巡の後、爪をたてることはやめた。彼が猫の戯れくらいにしか思っていないのなら意味がない。
 代わりに薄らとついたその胸筋にぴたりと手のひらを沿わせた。規則正しい鼓動と共に、夏の気温で上がった日番谷の体温が伝わってくる。
「……おい、」
 日番谷の呼びかけに視線だけで「なに?」と問うてみれば、彼はなにか言おうと口を開けたり閉じたりした後、「……相変わらず手が冷たい」と唸るようにぼやいた。
「涼しいでしょう」
「まぁな」
 諦めたような声音でそう返すと、日番谷は僅かに体を倒して後ろ手をついた。
 しっとりと汗ばむ肌に手のひらを滑らせて脇腹に触れれば、日番谷の体がぴくりと震える。
 は筋肉や骨の感触を確かめるように手のひらを這わせる。
 服越しとは違う彼の温度は、夏だというのに心地良く感じた。
「冬獅郎」
 そっとその名を呼んで、彼との距離――正確には彼の唇との距離を縮めた。
 最初は触れるだけの一瞬の接吻け。それから彼の唇の輪郭を確かめるように、もう一度 重ねる。
 三度目の接吻けの合間に、かすかに名を呼ばれた気がした。
 そういえば、日番谷の扇いでいた団扇はいつの間にか畳の上に放り出されている。
 彼の心臓の上にあてがわれたの手のひらも、すっかりその体温を移し取ってぬくんでいる。
「暑いな」
 ため息まじりに日番谷が呟けば。
「氷菓子、買ってきたよ」
 屋敷の何処かから聞こえる風鈴の音色に、思い出したようにも呟いた。





「……今はこっちでいい」
 腕の中に少女を抱き込んで、日番谷はそのまま後ろへと倒れ込む。
 胸元に寄せられたの頬も、白いワンピースから伸びる首や肩も、まだひやりとした感触を伝えているが、じきに日番谷と変わらぬ温度になるのだろう。