アリスの森

心をください

「日番谷隊長」
 老いて尚 威厳のある声音に、退室しようとしていた足を止め日番谷 冬獅郎は振り返った。
「なにか?」
 護廷十三隊を束ねる老翁から声を掛けられるのは稀なこと。内心で首を傾げながら、日番谷は総隊長の前まで進み出た。
「これを雛森 に渡してはくれんか」
 そう言って差し出されたのは、色とりどりの組紐。
 新しい任務の話か 松本の怠惰についてか。見当をつけていたところに思いがけない名前が出され、日番谷は不覚にも目を丸くしてしまった。






 縁側に座る幼馴染の少女が、日番谷の姿を認めて「おかえりなさい」と優しい声で言う。
 声音に反しての無表情は、松本がいたのなら「もったいない」の一言が聞こえてきそうだ。
 しかし、少女の表情が変わらずとも労わりの気持ちに偽りがないことを知っている日番谷は、「ああ、ただいま」と同じくらい優しい声で答えた。
 桜色の瞳が西の空を染め上げる夕焼けに戻ると、日番谷も障子を開けたままの和室へと入る。
 隊長だけに許された白羽織を衣紋掛けに掛けて、思い出したように日番谷がの名を呼んだ。
 呼んではみたものの、水飴を溶かしたようなキラキラとした赤い空に心奪われている少女の耳に届いたかどうかは疑わしい。だが、は一呼吸おいてからゆっくりと振り返った。
「なぁに?」
 気分屋の幼馴染がきちんと自分を見たことに内心で安堵しながら、懐に入れてあった包みをその目の前に差し出した。
 がことり、と首を傾げる。
「山本総隊長から預かった」
 日番谷の言葉にも思い当たる節がないらしく、桜色の瞳が瞬く。
「……山本総隊長が誰かわかってるか?」
 思わず確認してしまった言葉に、の柳眉がわずかに寄せられる。
「悪い」
「シロまでそういうこと言うの。十三隊の隊長・副隊長くらいは覚えてます」
「だから、悪かったって」
 笑いを噛み殺す日番谷に、「誠意が足りない」とが呟く。
 確かに、十一番隊 第四席を拝命する者への問い掛けとしては些か短慮だったかもしれないが、この少女をよく知る幼馴染としては至極 当然の言葉ではあった。如何せん、彼女は他人の顔と名前が覚えられないのだから。
 ようやく笑いの収まってきた日番谷が、未だ不服そうな様子のに手を伸ばす。
 そっぽを向いていた桜色の瞳が、伸ばされた手にちらりと視線を向ける。それを確認してから、日番谷はいつものようにの黒髪へとそっと触れた。
 はまるで猫のように大人しく撫でられている。機嫌も直ったようだ。
「お前に渡してくれ、と総隊長直々のお言葉だ」
 ほら、ともう一度差し出す手から、薄桃色の上品な包みを受け取る。
 滑らかな布地を開く。すると、中から出てきたのは――
「江戸打紐?」
「紐だな。何に使うんだ?」
 組紐から顔を上げると、の視線が日番谷の斜め上を泳ぐ。何かを思い出そうとしているのだろう。
「え、っと……花結び」
「ああ、飾り結びのことか?」
「締緒」
 白い指先が、紐の両端が結われて輪になっている紐を示す。
「お茶の道具を入れる仕覆を締めてあって」
「茶道具? そういえば、茶をてるのは総隊長の趣味だもんな」
 こくり、とが頷く。
 は夕焼けと同じ赤い紐を一本 手にすると、器用にその紐を操って花の形に結い上げてしまった。
「梅結び」
「総隊長に教えてもらったのか?」
 こくり、と頷く。
 あれほど熱心に見ていた斜陽へは目もくれず、すでに桜色の瞳の関心は縁側に並べられた色とりどりの組紐に向けられていた。





 自分の世界に入り込むと日番谷の存在すら忘れてしまうのは、少女の常である。
 それでも最初は日番谷の問い掛けに一言二言 返していたのだが、そのうち返事をするまで間が空くようになり、やがて総隊長に教えてもらったという花結びに熱中してしまったのだ。
 いつの間にか へら台と待ち針まで出してきて本格的に始めてしまったを、寒くなってきたからと室内に移動させ、暗くなってきたからと灯りをともすと、ついには やることもなくなってしまう。
 本でも読もうかと思ったが今ひとつ気が乗らず、結局 日番谷はの傍らで、その白い指先が紫紺の蝶を作りだすさまを見るとはなしに見ていた。
 幼馴染の少女が楽しければ それに越したことはないのだが、なんだか面白くない。
 山本総隊長にしてみれば、孫娘のような この少女が喜ぶだろうと思ってしたことなのだろうが、全く……余計なことをしてくれたものだ。
 此度の原因である組紐が視界の端に映ると、恨めしい気持ちはさらに深まった。





 縫い止められていた紫紺の蝶が待ち針から解放されると、それと同時に日番谷がのそりと動いた。
「……シロ、動けない」
「別にそのままでもいいだろ」
「別にいいけど」
 ちいさく首を傾げたが膝の上にある銀髪を撫ぜると、日番谷は緩く双眸を閉ざした。
 何が面白いのか、は日番谷の髪を梳いたり摘んだりしている。
 時折、冷たい指先が日番谷の額や頬を掠めたが、幼い頃から慣れているこの体温に嫌な気はしなかった。
「あ、でも、待ち針」
「裁縫箱に入ってるんだから大丈夫だろ」
 よもや膝の上に日番谷の頭があるのだから、少女が立ち上がることはないとは思うが、念のためにの腰に腕をまわす。
 今度こそ、幼馴染の少女が不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
「別に」
「?――珍しいね」
 少女の言わんとすることに察しがついて日番谷は敢えて知らぬ素振りで返したが、は「怒ってる?」と聞いてきた。
「……怒ってない」
「なら、拗ねてる?」
「…………」
「珍しいね」
 そう、もう一度 繰り返した。
 いつもは鈍いくせに、こんな時だけ気付くとは。本当に思いどおりにならない想い人だ。
 日番谷がちいさく ため息をつくと、頭上ではくすくすと笑う声。
「笑うな」
「うん、ごめんなさい」
 それでも、笑う声は止まなかったけれど。
 恥ずかしいような、格好悪いような、そんな気分で日番谷は腕の力を強める。頭の片隅で、これでは逆効果だな、と思いながら。
「ねぇ、冬獅郎」
 が呼んだ。
「手」
 おそらく、手を出せ、と言っているのだろう。
 少女の腰に回していた腕を解いて、請われるがままに手を差し出せば、は桜色の締緒を日番谷の手首に巻きつけた。
 先程と同じように花の形を作るが、今度は花弁の先を内側に曲げている。どうやら思いどおりの形にならないようで、少女は微かに眉を寄せた。
「今度はなんだ?」
 自分の手首には不釣合いな桜色の花結びと、其処に結われた組紐と同じ桜色の瞳の少女を見比べる。
 少女は「巧くいかない」とごちた後、諦めの吐息と一緒に「……桜の花」と呟いた。
 なるほど。
 うまく花弁の先が二つ山にならなかったようだが、確かにそれは桜の花だった。


「あのね」
 の指が日番谷の指を絡めとる。
「仕覆結びは鍵の役目もあるんだって」
 久方振りに見たのその仕草に、日番谷の眦が緩む。
「随分と頼りない鍵だな」
「『開けられないように』じゃなくて、『開けたら一目でわかるように』なんだよ」
 白い指が日番谷のそれに絡まり、一本一本を確かめるように撫でていく。時折、短く整えられた爪先が軽く引っ掻くように触れる。
「偉い人のお抹茶には混ぜ物がされないように、茶人はその人独自の仕覆の締め方をすることがあるんだって。一度解いたら、他の人では結い直せないように。解いたことが一目でわかるように」
 桜色の瞳が悪戯っぽく笑った。


「冬獅郎の心も、一目でわかればいいのに」


 日番谷の想いを疑っているとか、不安を感じているとか、そういうわけではないのだろう。
 ただ単純に、純粋に、わかればいいのに――そう思っているだけの言葉だ。
「……お互い様だろ」
 戯れに触れてくるこの指先が、誘うようなその瞳が、どれだけ日番谷の胸を波立たせているか。
 絡められている指先を解いて、日番谷は身体を起こす。そうすれば、桜色の瞳がより近くなった。
「冬獅郎がわからないのが いけないんだよ」
 日番谷からすれば理不尽にも思えるの呟きを、そっと封じ込める。





「……っ、機嫌、直った?」
 はぁ、と浅く息をついた後、が言った。
「まだ、」
 最後まで言わずに、もう一度、今度は深く接吻ける。


 解いたはずの指は、いつの間にか また絡めとられて。
 下唇をやわく噛んでみたらの指先に力がこもったのがわかって、日番谷は密かに満足していた。

(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)