さざなみの海で、真珠の呟き(後編)
いつだって想うのは、貴方のこと。
いつだって想うのは、お前のこと。
「」
甘味処を出て通りを二本越えたところで、はきつい声音で自分の名が呼ばれるのを聞いた。
ゆっくりと振り返った先には、予想どおりの日番谷の姿。
仏頂面で生真面目な彼だが、の名を呼ぶ時はこんな風にきつい調子で呼んだりはしない。常にない声音は、まだ機嫌が悪いからなのだろうか。
日番谷は心持ち足早に近付いてくると、辺りを窺う素振りを見せた後、大きく息を吐き出した。
「」
先程 感じたきつい印象が、少しだけ和らぐ。
「どうしたの?」
「ひとり、か?」
日番谷の問い掛けに、はこくりと頷いた。そして、そのまま小首を傾げる。
幼馴染の少年が浮かべる、微妙な表情。
機嫌が悪いというより、心配している時に近いような。姉が「日番谷くんはさすが隊長さんだね」と褒めた時の、照れ隠しの仏頂面のような……少し違うか。そういえば、以前 誕生日に一緒の布団で寝たいと わがままを言った時にも、こんな風に眉を寄せて困ったような顔をしていた気がする。
やっぱり自分は他人の感情に鈍感なんだな、とつくづく思う。こんなに大好きな日番谷のことすら、わからないなんて。
そんなことを考え込んでいたら、日番谷にもう一度呼ばれた。
「……何を考えてた?」
「冬獅郎のこと」
そうか、と独りごちた後、日番谷はやはり辺りを窺いながら、「何処かに行ってたのか?」と問うた。
それに対してはぱちりと瞬きをひとつして、こくりと頷く。
「…………」
「…………」
あぁ――
足りなかった言葉を補足する。
「いつもの甘味処」
「……ひとりで?」
その問い掛けに、一瞬 思案した。ふるふるっと首を振ると、かんざしの鈴がちいさく鳴った。
「…………」
「…………」
「六番隊の、」
「六番隊?」
日番谷の言葉を、が繰り返す。
六番隊と言われて最初に浮かんだのは、隊長である朽木 白哉であった。
厳格で近寄りがたい印象を持つ彼の隊長は、しかし、四季折々の花が咲く度にと日番谷を屋敷へと招待してくれる。は口数の少ないこの隊長を好ましく思っていた。
「朽木隊長?」
一方 日番谷は、の口から出た予想外の名に「いや、朽木じゃなくて、」と言い淀んだ。彼らしくもなく、歯切れが悪い。
朽木隊長でなく?――他に六番隊で思いつくことは あっただろうか。他所事に無関心な性質なので、すぐにはピンとこなかった。
ややして、先程 甘味処で交わした会話に行き当たった。
「八尋?」
がその名を呟けば、日番谷はさらに眉間の皺を深くして「一緒だったのか?」と聞いてきた。
「うん」
会話が途切れた。
常なら日番谷との会話が途切れても 然して気にも留めないのだが、なんだか今日は変な感じだ。
いつもなら はっきりという日番谷が、らしくなく歯切れが悪いせいか。他人との会話が不得手な自分のせいか。
このままでいいのか、何か話せばいいのか。
どうしてよいか判らず、は桜色の瞳で日番谷を見つめた。
夕暮れ間近の通りは喧騒というほどでもないが、程よく人通りもあり ざわめいている。
「―――雛森が」
日番谷がそう切り出したのは、人気も疎らな通りになってからだった。
あれから。
なんとなく往来で黙り込んでいるのも おかしい気がしていたら、徐に日番谷がの手を取って歩き出したのだ。
「いつもの店で、お前とあいつが一緒にいるのを見たって言うから」
「白玉あんみつ、奢ってもらった」
「そうか」
「うん」
―――これは……怒ってるのかな? どうだろ。わかんないや。
日番谷の仏頂面はいつものこと。これだけでは、には判断できず。
いつもの様子と違ってはいるが、別に怒っているようにも見えなかった。
「―――、――――なのか?」
突然、日番谷が立ち止まった。
繋がれた手に少しだけ力が込められた気がする。
「…………」
ぱちぱちと瞬きを繰り返すを見て、翡翠の瞳に呆れの色が映りこむ。
「お前、聞いてなかっただろ」
「う、ん」
日番谷の様子ばかり気にしていたので、彼の話にまで意識がいかなかった。
「お前なぁ……」
「ごめんなさい」
仕方ない奴だな、とぼやく日番谷。ため息まじりのその様子を見て、「あ、いつもの冬獅郎だ」と思う。
がちいさく笑みをこぼすと、「お前、反省してないだろ」と頭を小突かれた。
「ごめんなさい。それで?」
「は?」
「だから、何を話してたの?」
あぁ、と曖昧に返事をした日番谷は、また黙り込んでしまう。
は、待てを言われた犬のように日番谷の言葉を待つ。
日番谷はといえば、バツの悪い思いを堪えながら ようやく尋ねた内容を、もう一度繰り返すのに悩んでいた。
「だから、」
「うん?」
「お前とあいつが、」
「私と八尋?」
「いや、ちょっと待て」
「はい」
ずいぶん悩んでるなぁ、と他人事のように思いながら、繋いだままの日番谷の手に指を絡め直す。
―――やっぱり、冬獅郎の手の方が大きい。
斑目や綾瀬川とは比べ物にならないけれど、の手を重ねてみれば日番谷の方が少し大きい。背はあまり変わらないのに。
そういえば、足も日番谷の方が大きかった。
やはり、日番谷と自分は『違う』のだ。
今までも何度となく思っていた事実を再認識した。
「」
顔を上げれば、難しい表情の日番谷がいる。
「また、違うこと考えてただろ」
「そう、かな?」
「そうだろ。……何を考えてたんだ?」
「今日の冬獅郎、なんだか変。ずいぶん聞くのね」
何気なく言ったの言葉に、日番谷はぐっと押し黙った。
自身は、本当に何気なく悪気もなく言ったのだ。ただ気付いた事実を述べただけ。日番谷の心中を知らずに。
「別に詮索してるわけじゃ……」
もし この場に松本 乱菊がいたのなら、「『お前のことが心配だからだ』くらい言えばいいんですよ!」と背中を押してくれたかもしれないが、有能でお節介な副官はあいにく不在である。
「言いたくないなら、言わなくてもいい」
「別に。いつもと違うな、って。冬獅郎はあんまり そういうこと聞いてこないから」
だから、私のこと気にしてるのかなって思ったの。少し。
この言葉を聞いた日番谷の「『少し』なんかじゃない」という ちいさな呟きは、の耳へ届く前に消えてしまった。
「それを言うなら、お前だって今日はやけに突っかかってくるじゃないか」
「もう少し話をした方がいい、って」
「……誰に?」
たった三文字の問い掛け。
それだけの言葉だが、は「あれ?」と思った。なんだか少し雲行きが怪しくなってきた気がする。
このまま会話を続けていいのか逡巡していると、日番谷が同じ問いを繰り返す。
「……やひろ、に」
その名を告げた後に、ちらりと日番谷を盗み見る。――機嫌が悪くなった、気がする。
―――気のせいかな?
日番谷がとのやり取りで ここまで機嫌を損ねるのは珍しいことなので判断が難しい。いつ以来だったか――そうだ、が十一番隊に入隊希望を出したと言った時以来だ。あの時は、もう口を利いてもらえないかと思ったくらい、日番谷を怒らせてしまったのだ。
「冬獅郎、怒ってる?」
のこの一言に、日番谷はやけに はっきりとした口調で「怒ってない」と返すと、からふいっと視線をそらした。
「でも、機嫌悪い」
さすがのも日番谷のぴりぴりとした空気を感じて、絡めたままの指先に無意識に力を込めた。
その何気ないしぐさは、日番谷の頭を少しだけ冷静にする。
自分でも大人気ないと思う。
を籠の鳥にしたくない、と。
あの時、確かにそう思っていたはずなのに、そんな思いはすぐに覆される。
この自分勝手な嫉妬心で。
「情けないな」
深いため息と共に、口の中で呟かれた言葉。
がことり、と首を傾げたのが雰囲気でわかった。
「あのな、」
未だ視線はそらしたままで、日番谷が呟くように話し始める。
は黙って聞いていた。
「もっと他人と関わった方がいいとか、会話をした方がいいとか、いつもお前に言ってたのは本心なんだ」
緩く手を引かれて、静かに歩き始める。
「でも、お前があいつと仲が良いとか、一緒にいたとか、そういうのを聞くと ものすごく腹が立つ」
ひたすらに前を向いたままの日番谷の横顔を、桜色の瞳が見つめる。
「―――冬獅郎は、私が八尋と仲良くするのが嫌なのね?」
「あいつだけじゃなくて、他の奴らと一緒にいるのも嫌だ」
「弓親も?」
「綾瀬川も」
「一角も?」
「斑目も」
「剣八も?」
「更木も」
「やちるも?」
「草鹿も」
「阿散井さんも?」
「阿散井も」
「松本副隊長も?」
「松本も」
「朽木隊長も?」
「朽木も」
「桃ちゃんも?」
「……雛森も」
きょとんとしたように「桃ちゃんも?」と、もう一度 は問い返した。
「だから、俺以外の奴は全部だって」
「冬獅郎以外は全部」
「でも、そういうのは駄目だってわかってる」
だから、これは子ども染みた俺のわがままなんだよ。――日番谷が唸るように吐き出す。
「冬獅郎が」
日番谷がようやく此方を見た。
そのことが嬉しくて、の顔が自然と綻ぶ。
「嫌なら、冬獅郎以外の人とは話したりしない」
でも、彼が望んでいるのは そういうことでは ないのだろう。
案の定、少年は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて立ち止まった。
「冬獅郎が本当にそうしてほしいなら、私はそれでもいいよ」
「……なら、そういうだろうってわかってた」
「冬獅郎がそれじゃ駄目だって言うのもわかってるよ」
大好きな翡翠の瞳が戸惑いの色を浮かべて揺らめいているから、はその目尻にそうっと接吻けを落とす。
震えるように閉ざされた両の瞼にも接吻けて。
そのまま唇にもキスをした。
深く重いため息と共に、日番谷が「情けないな」と吐露するのを聞いて。
橙色の夕焼けから宵の蒼へと変わっていく空を背に、「そういう冬獅郎も好きだよ」とは事もなげに言って微笑んでみせた。