眠り姫への優しい言ノ葉(後日談)
ずっと一緒にいてやる――そう言ってくれた少年に手をひかれて。
歩きながら見上げた夜空は、いつの間にか雲が晴れて月が姿を表していた。
「ちゃーん」
遠くで名前を呼ぶ声がして少女は意識を覚醒させた。
元よりまどろむ程度にしか眠ってはいなかったが、久し振りにゆっくりできた気がする。
―――……ゆっくりし過ぎたかも。呼んでるのは……桃ちゃん?
目を開けて最初に見えたのは、自分を抱きしめて眠る少年の腕。
―――動いたら起きちゃうかな? どうしよう。
日番谷 冬獅郎は未だ眠りの淵にいるようで規則正しい寝息が聞こえる。
外では桃の呼ぶ声が続いている。おそらくは水汲みに行っているはずの自分を探しているのだ。さぞや心配しているだろうとを困惑させた。
何も行動に移せないまま桃の声を聞いていると、すぐ近くから別の声が響いた。
「桃、朝っぱらからウルセーぞ」
眉を寄せて不機嫌そうな日番谷が、に回していた腕の力を緩めた。が起き上がるのと一緒に体を起こす。一度伸びをして、先程よりも大きな声で叫んだ。
「ならここにいる」
そして傍らの少女へ視線を移した。
「おはよ」
いつもと違うかすれた声は彼が寝起きだと示していて、なんだかを嬉しくさせた。
「――おはよう」
挨拶を返すと少年の手が伸びてきて、少女を怖がらせないように触れる前に一度動きを止める。に拒絶の様子がないことを確認して、そっとその髪に触れた。
寝起きで少し乱れた黒髪を直されると、はくすぐったそうに笑った。
「少しは眠れたか?」
少年の言葉に笑みのまま頷く。
なにかと構ってくれる少年に、自分のもつ小さな秘密を打ち明けたのが昨夜。
他人の気配が気になって眠れない、と。
この世界――尸魂界にやってきたのが、いつのことだったか。は覚えていないけれど、死に物狂いで生きてきた。
最初に覚えたことは、他人を見たら見つかる前に逃げることだった。他人の気配に敏感になったのもその頃だ。
次に覚えたことは、殺される前に殺すこと。
そのうち自分のいる場所が北流魂街79地区と呼ばれる、この世界ではとりわけ劣悪な環境だということを知った。知ったところで別段 生活に変化はなかったが、それを教えてくれた男と、自分よりもずっと幼い少女とのやりとりは興味深かった。
それからしばらくは彼等と行動を共にしていた。
この地区は治安がいい。
基本的に各地区は簡単に行き来ができないように結界が施されているので、日番谷も桃も自分のように血生臭い経験はないだろう。
―――絶対、言えないなぁ……。
あの頃の習性なのだ。他人の気配が近くにあると眠れないのは。
眠れないこと自体はそれほど苦ではない。暇な夜の過ごし方も、体の休め方も、同じように身につけている。
ただ――。
―――優しい人達なのに、なんの心配もいらないのに、それでも眠れない自分がいる。家族を受け入れられない。優しい気持ちを返せない。そんな自分が怖い。いつまでも、あの殺伐とした世界の檻に囚われている。
―――私だけが、異質。
「」
名を呼ばれて視線で返せば、立ち上がった少年が手をさしだす。翡翠の瞳からその手に視線を移し、また翡翠の瞳に戻る。そして自分の手を静かに重ねた。
日番谷に手をひかれても立ち上がった。の顔に自然と笑みが浮かぶ。
今は差し伸べてくれる手がある。この少年の手が届くところにあるうちは、自分もできるだけ手を伸ばしてみよう。
自分の名を呼ぶその声が好きだから。できるだけその声を長く聞けるように。
だから……この過去に蓋をして、深い夢のふちに沈めておこう。
ふたりで布団を片付けているところへ、心配していた桃が駆け込んでくるまであと僅か。