落とした靴は、偶然か
「何をしている」
問いかけるでもなく、咎めるでもなく、ただ言葉にしただけ。
その言葉でゆっくりと振り返る人影には見覚えがあった。十一番隊に入隊直後、四席に据えられたという少女だった。
自分を見つめる少女の長い黒髪も、身に纏う死覇装も、雨に濡れてその色を濃くしている。
そうなのだ。少女はこの雨の中、傘もささずにいるのだ。かすかに笑みを浮かべ、楽しげに。
真夜中に幼い少女がそんな様なのだ。いくら親しくはない間柄としても声をかけるだろう。
近付く気配があることには、ずいぶん前から気付いていた。それが誰かということもわかっていたので、声をかけられてもさほど驚きはしなかった。
ただ意外だとは思った。
数回会っただけの、話したこともない、親しくもない自分に話しかけるような人だとは聞いていなかったから。
「――……雨の音を、」
「隊長~、ご存知でしたか?」
秋の終わり。風の中に冬の気配が感じられるようになってきたある日。
「何がだ?」
雛森 桃が風邪をひいた。
書類を届けに行っていた松本 乱菊が五番隊で聞いた話によると、昨日から体調が悪く、今朝になって熱が上がったので欠勤しているらしい。
「最近、急に冷えてきましたからね。隊長も気を付けてくださいよ」
自隊の副隊長の話を聞きながら、十番隊隊長・日番谷 冬獅郎は手元の書類から顔も上げずに曖昧な返事をした。
「やっぱり心配ですか? 雛森のこと」
松本が悪戯っぽく言った。
雛森 桃は五番隊に所属している日番谷の幼馴染だ。明るく何事にも一生懸命な彼女は、少年にとって家族同然の大切な存在である。
「別に雛森じゃなくても、知り合いの具合が悪ければ心配ぐらいする」
さぼり魔の副隊長でもな。愛想なく言われた言葉ではあったが、松本は嬉しそうな顔をした。
大人より大人びたこの少年は、いつも眉間を寄せて不機嫌な表情と空気を纏っている。他の隊の隊員からは近寄りがたく思われがちだが、松本を含め十番隊の隊員からの信頼は厚い。
「では、さぼり魔の副隊長は真面目に仕事しますので、隊長は雛森の見舞いにでも行ってあげてください」
目を通した書類に日番谷が印を押すと、その書類がひらりと取り上げられた。
「松本――」
「大丈夫ですよ。今日はそんなに忙しくないですし」
「雛森は五番隊の奴が看病してるだろ。わざわざ俺が行くほどじゃない」
「病気の時は気が弱くなりますから。親しい人がいれば安心すると思いますよ」
にっこり笑って言われれば、日番谷に否を唱えることはできない。
―――コイツのこういう時の気遣いには頭が下がる。
ため息をつくと、松本の笑みはさらに深まった。
「なら、少しだけ頼む」
「はい。任せてください」
「雛森さん、また後で様子を見に来るわね。日番谷隊長、失礼します」
五番隊の隊員が丁寧に礼をして退室すると、桃が大きく息をはいた。そして、起こしていた体をぱたりと後ろに倒した。
「つらいなら眠っとけよ」
布団を掛け直してやりながら日番谷が言う。
「うん。でも散々寝てたから眠くないの」
桶に浸してある手拭いを絞って額にのせてやると、桃は気持ち良さそうに目を細めた。
「隊長さんにこんなことしてもらうなんて贅沢だよね」
「何、ばかなこと言ってんだ。こんな時に関係ないだろ」
「そうだね」
ふふっと笑う桃に、日番谷は呆れた顔をしつつも内心安堵した。少年が予想していたよりも熱が高いらしく、目の前で横たわる少女は五番隊の隊長に三日間の休養を申し付けられていたのだ。
「には知らせたのか?」
日番谷が問うた。
「できればちゃんには内緒にしておきたいなぁ。心配かけたくないし、季節の変わり目ってちゃんも体調崩しやすいでしょ」
うつしちゃうといけないから――そう言って、桃は大きく息をついた。長話をするのもつらいのだろう。
そろそろ戻るか、と考える傍らで話題の少女を思い出す。
――雛森 は、言わずもがな桃の妹であり、日番谷の幼馴染でもある。人形のように良くできた外見の、人見知りの強い少女だ。顔立ちも性格も雰囲気も、姉の桃とは全く似ていない。
その少女が昨夜、少しのどが痛いと言っていた。
―――心配するといけねーから、雛森には言わなくていいか。
「なら、にばれる前に早く治せよ」
最後にぬるくなった手拭いを変えてやってから、日番谷は部屋をあとにした。
件の少女が気になって、日番谷は十一番隊を訪れた。
人気の少ない隊舎内で綾瀬川 弓親を捕まえてみると、
「なら一角と一緒に現世任務ですよ」
そう返された。
「三席と四席が一緒に現世なんて、なにかあったのか?」
日番谷の表情が厳しくなる。
「いえ、違いますよ」
綾瀬川が笑う。
日番谷のこの心配は、護廷十三隊隊長としてのものか、愛らしい少女へ向けた幼馴染としてのものか。
―――どちらにしろ、怪我などさせようものなら大騒ぎだろうな。
「新人の引率指導です。の担当なんですけど、暇を持て余した一角が同行してるだけですから」
「そうか」
日番谷は緊張を解いた。
「戻ったら十番隊に行かせましょうか?」
「いや、いい。たいした用じゃないんだ。邪魔したな」
任務に出ているなら大丈夫なのだろう。日番谷は少し安心して、十番隊に戻ることにした。
結局その日、が戻ったのは夜も更けてからだった。
「桃ちゃんが風邪だって」
日番谷の顔を見て最初の一言がこれだ。
「……たいしたことねぇよ。ちょっと熱が出ただけだ」
とにかく中に入れ。――そう言って引き寄せた体からは、いつもの香以外の匂いがした。かすかに酒の匂い。
「メシ食ってきたのか?」
「弓親が、」
名前だけ述べて、は袖口に鼻を近付けた。小さく首を傾げたところを見ると、自分ではわからないのだろう。
食べ物の匂いではなく酒の匂いしかしないとは、きちんと食べてきたのか、こいつは。もっとも、綾瀬川が一緒だったのならきちんと食べさせているだろう。
「綾瀬川と一緒だったのか?」
「なにか用だった?」
廊下を進む日番谷の後ろを、とことことついてきながらが聞き返した。しかし日番谷の質問とは微妙にかみ合わない。
日番谷と話す時に順序立てずに話すのは、の悪い癖だ。
「いや、具合はどうかと思っただけだ」
手を洗うの後ろで、壁に背を預けて少女の様子を見る。
が風邪をひくと、のどからやられるのは毎度のこと。いつも以上に念入りにうがいをする様子を見て、悪化させないように気をつけて見ておこう、と少年は考えていた。
「大丈夫だった」
「……そうか」
「うちの詰所まで来たって聞いたから。冬獅郎の用事が気にならなければ、いつもの店にいるから任務が終わったらおいで、って。夕御飯ご馳走になったの」
うがいの終わった少女を伴って居間へ行き、茶の準備をする。急須やら湯呑みをだしている隣で、は茶筒を並べて何にするか悩んでいる。その様子をしばらく眺めていると、茶筒からは視線をはずさずに少女が口を開いた。
「……シロ、行ってきた?」
「雛森のところか? 行ってきたぞ」
表情は変わらないが、少しだけの機嫌が悪くなった。
「念のために藍染に三日間 休めと言われたってよ」
「……また行く?」
「時間があれば顔出すけど――お前はうつるといけねーから、行くなよ。雛森からも言われてんだ」
今度はもっとわかりやすく機嫌が悪くなった。一番高い茶葉の蓋を開け、急須に入れている。
その不機嫌を見て日番谷は、姉の見舞いに行けないことへの不満だと解釈した。自分だけ会いに行くことへのやきもちだと。
それから三日後。
「日番谷」
隊首会の後、珍しい人物から声をかけられ日番谷は振り返った。
呼び止めたのは六番隊の隊長・朽木 白哉。
「なんだ?」
松本がなんかしでかしたか――と頭の片隅で考え、いや、いくらあいつでも朽木に迷惑をかけたりはしないだろう、と打ち消した。
「兄は、十一番隊 第四席の娘とは親しいのか?」
十一番隊 第四席の娘……
「雛森 のことか?」
「確か、そのような名だったか」
意図の読めぬ目が日番谷を見下ろす。
「あいつがどうかしたか?」
朽木の口から名が出るほど接点があるとは聞いていない。
「息災か?」
「……は?」
間の抜けた日番谷の返事に、朽木 白哉は眉をひそめた。
「変わりはないか、と聞いているのだ」
「……二・三日前からのどが痛いとは言っているが、この時期はいつものことだ。なんでだ?」
目の前の秀麗な男が、日番谷の答えを聞いて渋面を作った。
そして朽木 白哉から聞いた昨夕の雨の話に、日番谷少年は耳を疑ったのだった。
足音も荒く十一番隊へ赴くと、日番谷はがらりと詰所の扉を開いた。中にいた隊士たちはその勢いに訝しげな視線を向け、次いでそこに立つ人物に目を見張った。
「おい、雛森 はどうした?」
いつも以上に不機嫌なオーラを出している十番隊隊長に、さすがの更木隊も顔を青くして動けずにいる。
なんでこんな時に隊長や副隊長はおろか、上位席官がいないんだ。彼らの心の声だ。
「おい、聞いてるのか!?」
「あ、あの、雛森四席は本日、現世任務についております」
その言葉を聞き、先程の六番隊隊長とは比べ物にならないほど顔をしかめる少年に、慣れた霊圧が近づき、間もなく彼の名を呼んだ。
「日番谷隊長?」
件の少女だ。
不思議そうに見つめる少女へ近づくと、手を伸ばす。触れる前に一度動きを止め、少女の額にそっと触れた。日番谷のひやりとした手の感触に、反射的にはその桜色の瞳を閉じる。少年はというと、触れた肌の熱さにさらに顔をしかめた。
その様子を一番近くで見ていた綾瀬川が、いつの間に持ってきたのかの荷物を差し出して、日番谷に手渡した。
「すみません、日番谷隊長。朝は変わりなく見えたので」
「世話かけさせたな。ついでに、しばらくこいつ休ませるから更木に伝えておいてくれ」
「はい」
がなにか言う間もなく、日番谷に手を引かれて帰宅の途についたのだった。
「冬獅郎」
日番谷が松本に連絡を入れたのを見届けて、引きずられるように歩いていたが少年を呼んだ。
「……なんだ」
「桃ちゃんのトコ、行った?」
自分が熱を出しているのに、雛森の心配かよ。少年は憮然として答えた。
「昨日行ったら、もう熱は下がってた」
「今日は?」
「誰かさんのせいで、行く暇なんかなかった」
少女がわずかに笑みを浮かべたが、前を歩く少年は気付かない。
「心配した?」
「……心配なんて、」
心配なんて、したに決まってる。あれほど気をつけておこうと思ったのに、むざむざ熱までださせてしまった。
別に日番谷のせいではないのだが、昨日に限って目を離したことを後悔していた。しかも他の人間にの不調を知らされるなんて。
「治るまで見張ってるからな。おとなしく寝てろよ」
あの角を曲がれば、もうすぐ少年の自宅だ。
はいたずらが成功した子どものように、こっそりと笑った。