アリスの森

世界が変わる、その瞬間

 近々行われる現世での合同任務の打合せの為、松本を伴って十三番隊へ行った帰り道。
 向かいより訪れた死神に日番谷は足を止めた。
 知り合いではない。しかし全く知らない、というわけでもなかった。
「日番谷隊長、松本副隊長。お疲れ様です」
 ふたりに気付いた六番隊の死神は、穏やかな笑みで一礼した。
 先日見た光景が思い出され、日番谷は表情には出さずに舌打ちした。





「あいつなら、いないぞ」
 日番谷の言葉に八尋は一瞬首を傾げ、ああ、と納得した。ここは十一番隊の隊舎近くだ。
「雛森四席のことですか? まだ現世任務に行ってらっしゃるんですね」
「……知ってたのか?」
 日番谷がいぶかしむ。
 十一番隊に所属する幼馴染の少女――雛森 が今回の現世任務に出たのは急なことだった。
 そのため、と八尋の関係を聞けぬままでいる。そんな不機嫌な状態で元凶の彼に会うとは。
「一昨日、書類を届けに行った時に十一番隊の隊員に聞きました」
 何食わぬ顔で答えた八尋だが、これは嘘である。


 日番谷と桃が話しているところに偶然出くわしたのは、何日か前のこと。
 そして同じように偶然会ったが、珍しくも嫉妬を混ぜた深い瞳でふたりを見つめていたのも記憶に残っている。
 日番谷も知らない少女の秘密を知る八尋は、その後のの行動も容易く予想ができた。
 嫉妬の色を宿す桜色の瞳を、日番谷には見せたくないのか。
 持て余す苦々しい思いを落ち着かせたいのか。
 理由は不明だが、少女は決まって姿をくらます。


「この書類は更木隊長宛てですので、雛森四席が不在でも問題ありませんよ」
 では失礼します。一礼して八尋は去っていく。
 後に残されたのは、眉間の皺をいつもより増やした日番谷と、意外そうな顔の松本。
「隊長、八尋と顔見知りなんですか?」
 意外そうな表情そのままに松本が聞いてくる。
「別に……知り合いという程じゃない。霊術院の同期だから名前を知っている程度だ」
 松本を見ずに答える日番谷の声は不機嫌そのもの。
 日番谷が不機嫌そうなのは常のことだが、私情を交えるのは珍しかった。
「あぁ、だからあの娘のことも知ってたんですね」
 人見知りの強いあの娘に、男の知り合いがいるなんて珍しいと思ったんですよね。
 何気なく言った松本の一言。眉間の皺が増えたことは日番谷にも自覚できていた。





 結局、その日は仕事に身が入らず、夕方になっても仕事は終わらなかった。
 急ぎの仕事だけ終わらせていくと言った日番谷に、松本も残業を申し出てくれたが断った。
 自分の私情に巻き込むわけにはいかないし、今はひとりでいたい気分だった。

 ―――何やってるんだ、俺は。

 こんな苛立ちは久し振りだ。
 確か真央霊術院の卒業間近、が自分のいる隊ではなく、十一番隊に入隊希望を出したと聞いた時以来だったと思う。
 あの時は随分と腹を立ててを困らせた。桃は呆れて笑っていたが、は今にも泣きだしそうな表情でいた。そのくせ絶対に主張は曲げなかったのだから、もかなりの頑固者だろう。
 泣きだしそうな桜色の瞳を見て心が痛んだのは本当だ。幼い頃に守ると約束したのは、他ならぬ日番谷自身なのだから。
 反面、安堵する気持ちも多分にあった。日番谷に嫌われるのを厭い、不安そうにするに安心していたのだ。
 まるで子どものわがままだ。お気に入りの玩具を取られたくないと駄々をこねる子どものようではないか。
「とられたくない、なんて……元々俺のものじゃないってのに」
 日番谷はひとり、自嘲する。
 窓から見える月は細い糸のようだった。





 すうっ。ちいさな音をたてて寝室の戸を開いた。
 ようやく休めることに ため息をつき、しかし寝入る自信もないまま寝室に入ると日番谷は目を瞠った。
 部屋の中央には、朝片付けていったはずの布団が敷かれている。
 枕元の障子を小さく開け、片方の布団で寝入っている少女は、件の幼馴染であった。
 苛々していたとはいえ、少女の気配に気付かなかった自分に不甲斐なさを感じる。
 足音を殺して近付く。疲れているのだろうか。日番谷が枕元に膝をついても少女は目覚める様子がない。
 日番谷は静かに障子を閉めた。
 今宵は繊月なので然程 月明かりは入らない。しかし、寝る時は真っ暗にしないと寝られない少女にしては、らしくないことだ。
 数日振りに見る少女は、今はその桜色の双眸を瞼の裏に隠してしまっている。
 白い敷布に散る黒髪を一房 手に取ると、さらりとした感触が気持ちいい。さらさらと日番谷の手から滑り落ちる髪が、の頬にかかった。
 の眉が微かに寄る。その幼い様子に笑いをかみ殺し、日番谷は先程までの刺々しい気持ちが鳴りを潜めていることに気付かされた。

 頬にかかった髪を指先で払ってやる。

 ついっ、と指先が頬に触れた。

 すべりの良いなめらかな肌に思わず指を滑らせると、ぴくりと少女が反応した。

 起こしてしまったかと心配したが、手を退ける気はなかった。

 じっと見下ろしているとの手が動き、日番谷の指を掴んだ。

 瞼が震え、桜色の瞳がぼんやりとその指を見つめる。

 いつものように自分の指先を絡めると、は満足したのか瞳を閉ざし。

 そのまま、くぅくぅと寝入ってしまった。





 無意識に行われた少女の甘えに、日番谷は唐突に気付いてしまった。
 何故今まで気付かなかったのか、不思議なくらいだ。
 先程までの苛立ちの正体を理解すると、自分の浅はかさに嫌気がさした。

 ―――なにが子どものわがままだ。

 そんな愛らしいものではなかったのだ、この身に巣食う感情は。





 少女を籠の鳥になど、したくはないのに。

 少女は決して籠の鳥にはならないのに。

 それでも、願わくば――





「この瞳が開いても、俺以外の男なんか映さないでくれ」


 掬った黒髪に接吻けを落とした。

(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)