音もなく開いた扉の隙間から、廊下の明かりが入り込む。
扉を開けた本人はそれに頓着することもなく、するりと身を滑らせると、開けた時と同じように音もなく扉を閉ざした。
相変わらず飾り気のない部屋だ。
慣れた足取りで室内を進むと、本棚の一角に見知った背表紙が見える。
ああ……そういえば、彼の部屋に置きっ放しにしていたのか。
あまり興味はなかったので、そのままにしておいた。
自分の部屋に持って帰ったところで、どうせ本棚にしまうだけなのだ。ならば、此処にあろうと大して変わらないだろう、と。
薄闇の中、部屋の主はひっそりと眠っている。
彼の眠るベッドへと近付き、その端に膝をつく。
キシ、と。
ベッドがちいさく鳴って、僅かにその平衡が損なわれた。
いつのまにか、閉ざされていた黒の瞳が自分を見つめていた。
「おはよう、神田」
「……何時だと思ってやがる」
不機嫌に言ってやれば、目の前のふざけた女は「ああ――、……こんばんは?」と言い直し、にっこりと笑った。
「どうでもいい。そんなことより、そこを退け」
「どうして?」
「邪魔だ」
神田の険のある声に臆することなく、女は不思議そうな顔をする。
他の人間なら間違いなく瞬時に従うのだろうが、目の前の女には全く効果はないようだ。
言った神田自身もそれをわかっていたので、眉間の皺はそのままに舌打ちをした。
ベッドの上、神田の肩に両手をついて彼を見下ろす女――・は、神田の反応に機嫌良くエメラルドの瞳を細めた。
―――いや、違うな。機嫌が悪いのか。
神田は数か月振りに会うを見つめた。
「おかえりなさい、神田。久し振りね」
「久し振りなのは、お前の放浪癖のせいだろ」
確かに神田は任務のため、ホームを離れていた。しかし、その期間は6日だ。数か月も会わずにいた一因は、女の方にある。
一エクソシストであるくせに、が黒の教団本部に帰ってくることは稀だ。
とりあえず定期的に連絡を入れ、それなりに任務をこなしているようだが、は元帥並みに各地を放浪している。
「ただいま、神田」
「……ああ」
の機嫌の悪さがどこに起因しているのか。
煩わしく思いながらも、神田は思考を巡らせた。
まずは窓から零れ落ちる薄い月明かりで彼女の姿を確認する。
数か月前と変わらぬ長い髪。
目の前で笑みを浮かべる美しい面と 神田へと伸びる両腕。その白い肌にも、傷は見当たらない。
常の彼にしては慎重な手つきで、目の前にある頼りなげな肩をそっと押す。
今度は抵抗することもなく、促されるままには身を起こした。
その動作に怪我もなさそうだ、と僅かに安堵する。
「勝手にカーテン開けてんじゃねーよ」
ふと、気付いたことを口にしてみれば、は「よく見えるでしょう」と笑う。
神田は身体を起こしながら、未だ機嫌の悪いに二度目の舌打ちをした。
「ねぇ……神田」
神田の太腿のあたりに跨ぐように座るは、そこから動く気がないのか、神田の胸元へ視線を落としたまま彼の名前を呼ぶ。
「なんだよ」
の細い指先が自分のシャツを弄る様子を眺めながら、神田は面倒くさそうに返事をした。服越しに辿る指先がそのうちボタンを外すこともわかっている。
はたしては、神田のボタンを外していく。
上からふたつ目のボタン、次に一番下、その次に三つ目を外して……。
「元気だった?」
「別に。普通だ」
なんでこの女は、上から順に外さないのか。いつも思うことを、神田は今夜も思った。
「じゃあ……」
肌蹴られた神田の胸元を、の指が滑るようになぞる。
「怪我、しなかった?」
指先の止まった場所に、神田は本日三度目の舌打ちを返す。
誰だ、こいつに余計なことを話したのは。コムイかリーバー、それかリナリーあたりか。
「怪我、しなかった?」
左胸に印された梵字に触れたまま繰り返し問う。
エメラルドの双眸は、神田の瞳を捕らえて離さない。
「ねぇ――」
「うるさい」
なおも繰り返される言葉を遮って、神田はの後頭部をつかんで引き寄せた。
そのまま、機嫌が悪いくせに笑みを刻む唇へ 噛み付くようにキスをしてやると、至近距離にある神田の顔を見つめ、やがてエメラルドの瞳は閉ざされた。
神田が唇を離すと、あの胡散くさい笑みは鳴りを潜めていた。
目元に薄紅を散らし 潤んだ瞳で神田を見つめるに、事態を有耶無耶にできたかと思っていると。
かぷり。
少しだけ体温の上がった神田の胸元、梵字の上からが歯をたてた。
「テメェ……」
綺麗に並んだちいさな歯形が神田の胸元に残ると、それに満足したようで。
「―――ユウが悪いのよ」
今宵一番の笑みを浮かべたに、神田は舌打ちも忘れて魅入ってしまった。