アリスの森

アクアリウムの人魚姫

「あら、神田だわ」
 崩れゆくアクマの残骸を前にして乱れた呼吸を整えていた耳に、硬い靴音と女のやわらかい声が響いた。
 やけにヒラヒラと飾り付けられた黒の傘を差す女は、そのルビーの瞳に嬉しそうな笑みを浮かべている。
 青年は黒い瞳に驚きと苛立ちを滲ませて、まっすぐに女を見つめ返した。





「こんばんは、神田。久し振りね」
 見慣れたはずの顔に笑みを浮かべ、聞き慣れたはずの声でそんなことを言う女に、神田の苛立ちが濃くなる。
 神田の苛立ちに気付いているくせに、女はさらに笑みを深めた。乾いた靴音が二歩、ふたりの距離を縮める。
「―――なんで此処に居やがる」
 低い声で不機嫌に問うた。
「散歩」
「お前がアクマを操ってたのか?」
「私が?」
 女は可笑しそうに笑う。
「私はただの人間よ」
 そんなことはよく知っている。問いたいのは そんなことではないと、この女とて承知しているだろうに。
「ところで今日は、神田ひとり?」
「……だったら何だよ」
「元気?」
 女の声が感傷的に聞こえるのは、自分の気のせいだろうか。
「あの人は元気でいる?」





 誰もが寝静まった廊下に、足早な靴音が響く。
 先程 報告に行った科学班のフロアは、深夜にもかかわらず仕事をしている者達もいたが、さすがに居住区フロアには起きている者はいないようだ。
 そう思っていた矢先に、薄暗い廊下の奥から微かに音が聞こえてきた。
 ……っと……っと、と音とも言えないその音は、少しずつ此方に近付いてきている。

 ―――何の音だ?

 神田は廊下の奥を訝しげに見つめる。
 やがて一人の女が薄明かりの下に姿を現した。
 そして何処かで見たような笑みを浮かべ、何処かで聞いたような声で言ったのだ。
「あら、神田だわ」
 ―――と。


「おかえりなさい、神田。久し振りね」
 あの時と同じ笑みで、同じ声で、しかし瞳の色だけはたがえたエメラルドで神田を見上げる。
 珍しい、いたのか。――と神田は思った。
 滅多にホームへ帰ってくることのない この女が、このタイミングで帰ってきている。何か知っているのかと勘繰ってしまうのは、この女の得体が知れないからだ。
 エクソシストとしての腕は申し分ない。他の女のように めそめそ泣いたり、べらべら喋ったりする性質でもないし、付き合いが長いから いろいろと面倒くさくもない。
 ただ、得体が知れないのだ。
「こんな時間に何してる」
「散歩」
 その単語に神田は無意識に眉をひそめた。
 一方 は、神田の反応は深夜徘徊のそれに対するものだと思い、「眠れなかったから、泳いでこようと思ったのよ」と付け加え薄く笑った。
「眠れないなら、大人しくベッドに入って羊でも数えてろよ」
 目の前に立つ黒髪の青年の思いがけない言葉に、はきょとんとする。そして、
「らしくない」
 くすり、と笑みを零し、神田の横を通り過ぎた。
「うるせぇ」
 結局、泳ぎに行くというのは撤回しないのだろう。通り過ぎたを追う形で、神田も踵を返す。
 何気なく視線を落とせば白い素足が目につき、神田はまた眉を寄せた。
「おい、靴はどうした?」
「靴を履くと足が痛いから」
「怪我でもしてるのか?」
 視認できる範囲では、それらしい様子はないが。
「窮屈だから」
「は?」
「窮屈だから、履きたくないのよ」
 ただそれだけ、と言って、は薄暗い廊下を歩き続ける。
 ……っと……っと
 の歩みを眺めながら、あの奇妙な音は足音だったのか、と神田は考えていた。





 ざばっ、と水の音が響く。
 水中に潜っていたが顔を出すたびに響くその音が、プールサイドに近い位置で聞こえたので神田はうっすらと目を開けた。
 案の定、プールサイドに両腕をかけてが此方を見ていた。
「気は済んだのか?」
 神田の問いかけに、は明確な返答はせず薄く笑ってみせた。
 この女の表情を飾るのは、『笑み』が多かった。しかしながら、そこには明るさだとか 華やかさだとか 優しさという色は少ない。
 青みがかった緑の双眸をわずかに細めて、機嫌の良し悪しも 悩みも 全てその裏に隠して薄く笑みを浮かべる。
 そうして自分のことをあまり語らないに、神田が苛立ち混じりに舌打ちするのも常のことだった。


「時々……無性に息苦しく感じる時があるのよ」
 ややあって、の静かな声が瞑目している神田の耳に届いた。
 黒の瞳が自分へと向けられたことに気を良くしたは、まるで歌うように続ける。
「水の中に潜ると、それが少し落ち着くの」
「……それで、いつか海の泡にでも なるつもりか?」
 エメラルドの瞳がぱちりと ひとつ瞬いた。それから、くすくすと声を殺して笑い出す。
「私を海の泡にする予定があるの?」
 本日二度目の彼らしからぬ神田の発言は、ずいぶんと彼女を楽しませたようだ。
 居心地悪く身じろいだ拍子に、胸ポケットに入れていた存在を思い出した。
 ああ、と神田は思う。
 立ち上がった神田をじっと見つめるの元に膝をつく。
「手、出せ」
 ことり、と傾げる首元で、赤い石のついたネックレスが揺れる。は言われたとおりに右手を差し出した。
 差し出された手を掴むと、掌を上に向ける。すっかり冷えた手に舌打ちした後、神田は胸ポケットを探って目的のものを摘み上げた。
 そして、殊更ゆっくりとした動きで自分より一回りちいさな掌へ、それを落とした。
 ころん、と掌に落とされたもの――

「ゆびわ?」

 エメラルドの瞳が指輪を見つめる。それを確認して、神田は手を離した。
 数時間前にあの女から預かった指輪だ。
 が少しふやけた指先でプラチナの指輪を摘むと、そこに輝くアレキサンドライトを見つめる。
 その石が、陽の光の下では気品のある青緑に輝くことを神田は知っている。しかし、今の色は――


 ランプの灯りに照らされてルビーにも似た やわらかな赤紫に輝くその宝石に、懐かしい まなざしを思い出す。


「……元気だった?」
 あの女と同じ感傷的な声が、神田の耳を打つ。
「あぁ。――相変わらずお前と同じ顔だった」
 二年という年月が流れても、変わらずに合わせ鏡のような二人。この先も二人の容姿がたがえることはないのだろうと、何とはなしに神田は思う。
「そう……」
 良かった、と珍しく穏やかな笑みをは浮かべた。





 生まれた時から一緒にいた片割れが、ノアの一族のあの青年の元へ行くと言った時。
 「はどうする?」と彼女は尋ねた。
 この教団に神田がいる限り、自分は此処を離れるつもりはない。そう言ったに、彼女は「そうだろうね」と穏やかに笑ってみせた。
 自分達ですら互いの区別がつかなくなるくらい一緒にいたのに、簡単に離れることができたのは、いつだって片割れを愛しているという想いが変わらないことを知っているから。
 会えないことに寂しさを感じる時はあるけれど、それすらも同じ想いだろう。





「水に融ける前に、そろそろ上がれ」
「大丈夫よ。神田が他にお姫様を見つけても、悲劇のヒロインを演じる気はないから」
 迷わずにあの女と同じ指に指輪をはめたが、その手で神田の頬を撫でる。
「……お前だけで足りてる」
 むざむざ海の泡にする気などない。そんなこと、面と向かって言いはしないけれど。
 頬を撫でていた指先が、神田の薄い唇を辿る。
 先程まで浮かべていた穏やかな笑みは何処へやら。一転してその美しい面を飾るのは、妖艶な笑みだった。
 何も言わずキスを強請る人魚姫を、神田は水の中から引き上げる。


 重ねた唇は冷え切って、わずかに塩素の味がしていた。