キンギョは、遠い夢を見る。2
図書館から温室へ向かう途中。
風に流されてきた淡い花弁に思わず足を止めた。
見慣れた花弁は、しかし、此処にはある筈のない花で。
花弁の流れてきた方へと足を向ける。
やがて緑と青の合間から淡い色が姿を現した。
はたして彼の予想どおりに、彼の樹はそこにあった。
見事な枝振りに薄紅の淡い花がわずかに咲く。
誰が植えたのか、この遠いクーヘン王国にこの樹があるとは意外だった。
美しくも儚い薄紅の花たちが、遠い故郷を思い出させた。
春とはいえ未だ肌寒い裏庭を、ナオジ・イシヅキは散策していた。
この学園に入学してから、温室へ向かう折、鍛錬の折に、よく利用する場所ではあったが ここ数日は違う目的で通っていた。
先日見つけた故郷の花――満開とは言い難い桜の大樹のためである。
感傷だとはわかっていた。それでも、見慣れた、それでいて懐かしいあの花を見たくて足を運んでしまう。
桜の樹のことは誰にも言わなかった。今までも他の生徒の姿は見かけていないので、あまり知られてはいないのだろう。
あのカミユですら知らないようだ。教えてあげれば さぞ喜ぶだろうとは思ったが、なんとなく言い出せないままになっている。
風が吹いた。
今日は少し風が強いようだ。
せっかく咲きそろってきた桜の花が散ってしまうな、とナオジは頭の片隅で思った。
森の緑と空の青で占められていた景色の中に、唐突に桜色の洪水が広がった。
「これは――」
視界一面を埋め尽くす桜色の花洪水。
濃淡を織り交ぜ、遠近どころか天地すら あやふやになりそうな花景色。
見事過ぎるほどに咲き誇る桜に、ナオジが息を呑む。
暫し立ち尽くすナオジの元へ、桜の花弁が流れてきた。
ふわり
ふわり、と。
風の流れに翻弄されて、定まらぬ軌跡でナオジの前を揺れるそれに、つい、と手を伸ばす。
ふわり
ふわり、と。
しかし、花弁はナオジの手から逃れるように、右へ左へと揺れる。
その様を見て、ナオジはため息をついた。
まるで、自分の望むものは手に入らないと言われているようだ。
―――考えすぎだとは、わかっている。けれど……。
その時、一際 強い風が吹いた。
柔らかな桜景色が、途端に眼前へと迫り 桜吹雪となる。
風が止む間際、
桜色の濃淡の中に見えたのは、
常盤色の桜の精だった。
桜吹雪が収まった其処にいたのは、
「―――……殿……?」
驚きのあまり、その名を紡ぐ声が掠れた気がした。
風はもう吹いてはいない。
名残の花弁を軽く舞わせながら、桜樹が沈黙する。
その樹の下で常盤色の着物の袖を揺らして、桜の精が振り返った。
ゆっくりと――
見覚えのある少女は、その花の顔をナオジに向けた。
「殿、」
どうして此処に、と聞きかけて止めた。この少女はいつも唐突に訪いを告げる。
「お久し振りです」
側近くまで行き、声をかけると、黒曜石の瞳が見上げてきた。自分と同じ漆黒の瞳は、しかし自分より深い色味を帯びているように見えた。
「ナオジ……さん」
「はい」
は夢現のような眼差しでナオジから桜へと視線を移す。
「まるで」
ナオジの声に少女が視線を戻した。
「桜の精かと思いました」
言葉を返さず、少女は静かにナオジを見つめる。
「突然の桜吹雪、それが収まったら貴女が現れたので。それに」
今日は着物なのですね――そう言って、の髪についた花弁をそっと摘んだ。
静かに桜を見上げていた少女の、着物の袖がひらりと揺れた。
常盤色の着物、その袖口から微かに覗く濃桃。そして、その先に続く、白く華奢な手が虚空へと伸ばされる。
その掌に吸い込まれるように春の欠片が納まった。
宝物を隠すように、もう片方の手をそっと重ねる。
ふと、見つめていた視線の先で、少女が不思議そうな表情でナオジを振り返った。
どうやら先程の自分との違いに、ナオジは知らず苦笑していたらしい。
「いえ、先程 自分も同じように花びらを掴もうとしたのです。自分にはできなかったことを、貴女は容易く得てしまうのですね」
自嘲気味に笑うナオジを、は瞬きひとつで見返した。
「掴もうとするから逃げられるのです」
の声は然程 大きくはないが、ナオジの内へは よく響いた。
「結果を望まない方がよい、ということですか?」
「いえ」
が重ねたままの両手を彼の方へと差し出した。
「そんな気などない風を装って、隙を見て捕らえるのです」
何事もそんなものです――そう言ってナオジの掌へ、春の欠片を静かに落とした。
まさか、この少女からそんな言葉が出るとは思わなかったので、ナオジは呆気にとられてしまった。
「満開の桜の樹の下に立つと、不安になるというのも頷ける気がします」
「不安、ですか?」
「はい。――坂口 安吾の『桜の森の満開の下』だったかしら。ご存知ありません?」
「いえ。不勉強で申し訳ありません」
が自分のことを話すのは珍しい。いつの間にか訪れる不思議な少女は、自分のことは名前以外あまり覚えていないらしい。
思わぬ少女との会話にナオジは眦を緩めた。
「よろしければ、どのようなお話か教えて頂けませんか」
ナオジの乞いにが一度その黒曜石の瞳を伏せ、そしてまた、傍らに立つ青年を見つめる。
―――オルフェ殿が心奪われる気持ちもわかりますね。
黒の瞳を見慣れた自分ですら魅了される。
この美しい少女は、彼の青年には過ぎた毒なのだろう。
「その前に……」
ふたりで過ごす時間は貴重この上ないが――。
「美しい桜も良いのですが、紅茶とお茶菓子などいかがですか。温室にはカミユもいると思いますので」
ナオジの柔らかな笑みに、も珍しくその表情を緩める。
そんなを見て、やはりもう少しふたりだけの時間を過ごしておけば良かった、とナオジは苦笑した。
温室へと歩き出そうとしたが、ふと思いたって少女の方へ手を差し出す。
神出鬼没な少女のことだ。振り返ったらいなくなっていた、ということもあり得る。
「よろしければ、温室まで お手をどうぞ」