幼い日の幻影
―――野球の練習がない時は、ずっとと一緒にいてやるから。
泣いてるキミを元気にしたくて、キミのためにした『約束』だったけど。
この『約束』がある限り、オレは無条件でキミの隣にいることができるんだ。
「ゆーちろー」
窓の外から呼ばれる名は、田島 悠一郎。
呼んでいるのは幼馴染の、 。
田島の名前を呼ぶ時に「い」の発音が不明瞭になるのは、子どもの頃からのの癖だ。
「ねぇ、ゆーうー」
あわてて窓を開けるのと、隣の家から もう一度 名を呼ばれるのとは同時だった。
あわて過ぎたせいか予想以上に大きな音をたてた窓に、一階から「こらっ、静かに開けなさい」と母親の声が響いた。やべっ、と呟くと、くすくすと笑う声が聞こえた。
「ゆーう、気をつけないと指 挟むよ」
が窓から身を乗りだして笑う。なんだか危なっかしいな、と思うのは毎度のこと。
「こそ、そのうち窓から落ちるぞ」
「大丈夫。悠一郎、お風呂から出たばっか? 頭ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
首にかけていたタオルでごしごしと髪を拭きながら、田島が「どうした?」と尋ねる。
時計は夜9時を回った頃。
「明日のために早く寝るんじゃなかったっけ?」
「さすがに9時は早すぎでしょ。ねぇねぇ、空見てごらんよ。星がすっごい綺麗だよ」
「おー、ホントだ」
「空気も冷たいし、散歩したら気持ちいいだろーなー。だめかな? ちょっとくらいなら、いいかな?」
「もう遅いし、寒いし、ダメだぞ」
空を見上げて ひとり悩むに、田島がすかさず釘を刺す。途端に拗ねたような顔に変わる。
「そんな顔してもダメだって。姉ちゃん達に、危ないから9時以降はを外に出すなって言われてんだからな」
「ちょっと近所を散歩するくらい……」
本人は無意識なんだろうけど、そんな風に上目遣いで言われたら思わず「いいよ」と言ってしまいそうになる。
―――がんばれ、オレ!
ちょっと自分にエールを送ってみる。
そんな田島を突き崩す一言。
「春休み中も結局、悠一郎は野球ばっかりだった」
のその一言は、田島にとって重要な意味を持つ。
「―――うっ、それは悪かったって思ってるけど……」
「きっと高校に入っても野球ばっかりで、私のことなんて すぐ忘れちゃうんだろうな」
「あー、それは、野球部には入るけど……」
とどめに盛大なため息。窓枠に突っ伏してしまった幼馴染に、田島は白旗を上げるしかない。
それが少年・田島 悠一郎と少女・ の、幼い頃に交わした約束なのだから。
「、。オレね、野球チームに入るんだ」
「ゆーちろー、そんなに野球が好きだったっけ?」
「おもしろいんだぜ。ほら、これ」
そう言って見せられたパンフレットは漢字ばかりで、小学生のには よくわからなかった。
実際、野球の何がおもしろいのかも よくわからない。
ただ、目をキラキラさせて話す少年には嬉しいことなのだということはわかった。
「日曜日も野球ができるんだ。すごいだろ」
「……日曜日……?」
「そうだぜ、……?」
俯いたに田島は首を傾げる。
「おい、。どうした?」
いつまでも顔を上げない少女を心配して覗き込めば、泣きそうな顔が目に入った。
「おいっ、どうしたんだよ。どっか、痛いのか?」
「~~~ううっ」
「泣くなよー」
頭をなでてみても泣き止まないに田島は焦った。
泣いたり、機嫌を損ねたりしたを元気にするのは、田島の専売特許だった。
の両親も田島の兄や姉も手を焼くのに、少年にだけは簡単なことで、共働きで忙しいの両親からは「のことは、悠ちゃんに任せておけば大丈夫ね」なんて言われていた。
末っ子で甘やかされている田島にとって、幼馴染のこの少女は妹のような存在だったのだ。
「…………っちろー……たら、ひとっ……ちゃう」
「え? なに?」
か細い声で泣きながら話すの声が拾えるように、田島は耳を近付けた。
「……ゆーちろーがっ、いなく、なったら、ひとりに、なっ、ちゃう」
学校以外の一日の大半を田島の家で過ごし、常に田島と一緒にいたにとって、少年が野球に没頭してしまうことは大変なことであった。
「いなくなんねーよ。学校行くのだって ご飯食べんのだって、今までと変わんねーし。野球の練習がない時は、ずっとと一緒にいてやるから」
「ほんと?」
「ほんとだ」
が顔を上げたことに ほっとして、左手の小指を差し出した。田島の意図に気付いて、も小指を差し出す。そこで、
「……ゆーちろー、指、反対だよ」
「あれ? まっいーや」
左手の小指と右手の小指をムリヤリ絡ませて、「ゆーびきーりげーんまーん」と歌い始める。
「ゆーちろー、約束だよ」
「ちょっとだけだぞ。10分……いや5分だけ。明日は入学式なんだからさ」
「うんっ、ありがとう。悠一郎」
がとびっきりの笑顔で言った。
この笑顔が見たいから、『約束』にかこつけての願いを叶えてきたんだ。
あの時、泣いているをどうにかしたくて交わした『約束』。
あんな風に、ひとりになることに怯えて泣かせたりはしないから。
だから、
―――オレにとっても、を独り占めできる都合のいい『約束』だったことは内緒だ。
「んちの玄関で待ち合わせ。オレが行くまで中で待ってろよ」
窓を閉めるのと同時に、放り出してあったジャケットをつかんで田島は部屋を飛び出していった。
キミとの『約束』を守るために。
(『幼馴染みの恋物語』 Title by 恋したくなるお題)