優先すべきは、わがままなお姫様
図書室の片隅、ブラインドの下ろされた窓に面した机。
周りを高い書棚に囲まれた、程良く薄暗いそこがの気に入りの場所だった。
いつものように そこで本に没頭していると、書棚の陰から数人の女生徒たちが姿を現した。
こんな奥の、しかも凡そ中学生向けとは言えない書棚に人の気配を感じ、ちらりと視線を上げた。
―――見覚えはない。
すぐに興味を失って、手元の本に意識を戻した。
もっとも、他人の顔と名前を覚えない彼女にとって、クラスメイトの半分は知らない生徒になるのだが。
「さん」
呼ばれた名が自分のものだと認識するのに数秒を要した。
背後に立つ、先程の少女たちを仰ぎ見る。その険しい表情から面倒な内容だということに察しがつき、思わず ため息がでた。
「あんまり雲雀に慣れ慣れしくしないで。雲雀も迷惑してると思うの」
脈絡なく言われた内容に、は無表情に相手を見つめた。
「……なにそれ」
応接室の執務机で書類に目を通していた雲雀が、顔を上げて怪訝そうに聞き返した。
彼の視線の先には、幼馴染の少女である がいる。布張りのソファに座り、視線は手元の本に向けたままは答えた。
「だから『私の雲雀に馴れ馴れしくするな』って」
「……僕が誰のだって?」
「『私』?」
首を傾げたが、本から視線を上げて雲雀を見た。愛らしいと言って差し支えないその仕草と 微妙にかみ合わない会話に、知らず ため息がでる。
「だから『私』って誰なのさ」
「―――恭弥の彼女候補じゃない?」
「そんなもの作った記憶ないんだけど」
不機嫌そうな顔で雲雀が言う。他の生徒なら恐怖で逃げ出してしまうが、幼馴染の少女は気にした様子もなく、手元の本へ視線を落とす。
「先週、告白してきた子がいたでしょ? その子じゃないの?」
「……別にそんなんじゃないよ。彼女とか言われるとムカツク」
「なにそれ」
がちいさく笑った。
実は二人がこんなやりとりをするのは、今回が初めてではない。
こんな危険物みたいな男だが 顔だけはとても良いので、果敢にも雲雀にアプローチしてくる人もいて。それに対して雲雀もはっきりと拒否しなかったことで、相手に付き合っていると勘違いさせたことが過去に何度かあったのだ。どれも ひと月と続きはしなかったが。
「長続きさせたければ、私には構わないように教えてあげることね」
「……めんどくさい」
「なら別にいいわ」
もう一度ちいさく笑って、それっきりは口を閉ざした。
少女の関心が本へと向いてしまったので、風紀委員長も書類に集中することにした。
最終下校時間10分前。
雲雀が最後の書類の確認を終えて、持っていた万年筆を置く。
幼馴染の少女に目をやると、読み途中のページを開いたまま瞳を閉じていた。
ピクリとも動かない、呼吸の音すらさせない少女は、精巧に作られた人形のようだ。
この美しい人形が動き出す瞬間を見るのが少年は好きだった。
少年が静かに立ち上がる。椅子がちいさく鳴ったが、これくらいでは反応はしない。
ソファへと歩を進める。2メートルほど離れたところで立ち止まる。
「」
少年の凛とした声が空気を震わせた。
美しい人形が長いまつげを うっすらと開き、その瞳に光が宿る。
もたれていた肘掛けから ゆっくり身を起こし、自分を呼んだ少年へ視線を動かした。
が、自分の声で息を吹き還す。
自分の声で動き出す。
雲雀は満足の笑みを浮かべた。
はその表情を見て、あぁ、と思った。
幼馴染の少年が、寝ている自分が起きる瞬間や、強い感情をあらわす姿を見るのが好きなことは知っていた。
―――いや、違うか。
その瞬間を『見る』のがではなく、『自分の影響』でそうなるのがいいのか。
以前そのような話をした時に、の兄は難しい顔をした。このふたりの性格や特殊な信頼関係を知っているので、なにも言いはしなかったが思うことはあっただろう。
「……終わったの?」
「うん。もう帰るよ」
一度伸びをして、本を鞄に入れて立ち上がると、すでに雲雀はドアのところで待っていた。
「今日はの家で夕飯 食べようかな」
ドアを開けながら言った雲雀の言葉に、そう、とだけ返す。
「ついでに泊まっていくよ」
夜中に起こさないでよ――の言葉が、先程の自分の行動をさしていると気付き雲雀は笑った。
「さん」
放課後。図書室の定位置に向かっていたを呼び止めたのは、先日の『私』とそのお友達。
―――多分……この前の子よね?
「ちょっと話があるの。きてくれない?」
「忙しいから、ここで聞くわ」
面倒だ、という表情を隠しもせずにが応じると、相手の少女たちは攻撃的な態度を強くして叫んだ。
「なに、その態度。図々しいんじゃない!?」
「ちょっと成績が良いからって、調子に乗ってんじゃないわよ」
―――学年首席って『ちょっと』程度なんだ。とか言ったら、火に油を注ぐかしら。
「この間、私が言ったこと聞いてたの!?」
「……『私の雲雀』に手をだすな?」
「そうよ」
は相変わらず面倒そうな表情のまま、ため息をついた。
「あなた最近、雲雀に何か言われなかった?」
「なっ……なにをよ」
「『長続きさせたければ、私には構わないように』」
「なによ、それ」
「伝えておいて、って言ったでしょ」
「めんどくさい、って言っただろ」
の言葉に返事をしたのは、目の前の少女たちでも、様子を遠巻きに見ていた他の生徒たちでもなかった。
「雲雀くん」
少女のひとりが嬉しそうな顔をする。しかし、雲雀の次の言葉に表情を変えた。
「、帰るよ」
「な……ちょっと、雲雀くん」
「なに?」
「なんでさんに構うのよ」
てっきり自分を援護してくれるものだと思っていたのだろう。自分を無視してに声をかける雲雀に思わず声を荒げた。
「君には関係ないだろ」
雲雀の返事に少女は言葉を失った。みるみる青ざめる顔色に、周りの友達が心配や非難の声をあげる。
用は済んだと、雲雀はすでに出口へと歩を進めている。それを避ける人垣に、まるでモーゼの十戒のようだと、関係のないことを考えていると、に罵りの言葉が浴びせられた。
複数からの口汚い言葉は、普通の中学生なら泣き出していただろう。しかし という少女は他人への関心が薄く、中傷の類を気にしない質なので、相手を無表情に見つめた。
「忠告してあげるけど……雲雀が自分のものだなんて、思っても口には出さないことね」
そんなことが ありえないのは誰の目にも解りきってるし、それって恥ずかしいじゃない?――は淡々と述べる。
「っ……」
「それと、もうひとつ」
「雲雀との関係を長続きさせたければ、私には構わないでおくこと。雲雀にとって、私の機嫌を損ねてまで優先させるものって、あまりないのよ」
「遅いよ、」
昇降口で待っていた少年が不機嫌な顔で言うのを、幼馴染の少女はいつもどおりに返す。
「誰のせいで迷惑かけられたんだっけ」
「…………」
「『』でガトーショコラが食べたいね」
「……奢ればいいんだろ」
雲雀がため息をついて、「わがままなお姫様」とこぼした。
「あら、」
「そんなの今更じゃない」
実に晴れやかに笑って、幼馴染の少女は振り返った。