黒髪マーメイド
音もなく開いた扉の向こうでは。
幼馴染の青年が、少年の頃と変わらない不機嫌顔で静かに立っていた。
―――相変わらずの綺麗な顔。
不意の再会にそれとわからぬように瞠目し、 はそう思った。
「あら、恭弥。こんな所でどうしたの?」
ひと月振りに会う幼馴染が眦を緩めて、そう言った。
まるでコンビニで会った時のような軽い口調に、雲雀は面白くない、という気持ちを表情に表した。
「久し振りなのに不機嫌な顔。少しは笑ってみせてよ」
の伸ばす手を目で追いながら、雲雀は「面白くもないのに笑えないよ」と呟く。
そんな雲雀に気分を害した様子もなく、は口元に微笑を浮かべて雲雀の頬に触れた。
沢田 綱吉に頼まれてイタリアにいる彼の元へやってきたは、その仕事を終えて雲雀 恭弥の有する施設へと続く扉の前に来ていた。
並盛と同じく、ここでもボンゴレ十代目の屋敷と雲雀の施設は、いくつかの扉と地下回廊を挟んで繋がっている。
その一つ目の扉を開けたところに、雲雀 恭弥は立っていたのだ。
頬に触れる彼女から似つかわしくない匂いを感じて、雲雀は不機嫌な表情をさらに不機嫌に染めた。
未だボンゴレの敷地内にいるの体を引き寄せると、彼女の背で静かに扉が閉ざされる。
引き寄せたの首筋に、雲雀が鼻先を近付けた。首筋よりも闇を染め上げたような黒髪の方が匂いが強い。
服からもしてくる その匂いに舌打ちすると、雲雀はの体を肩に担ぎ上げた。
「っ……なに?」
「黙ってなよ」
驚いたが尋ねるが、雲雀は次々と扉を解除して彼の施設へと歩みを進める。
こうなっては反論するのも 抵抗するのも無意味だと知っているので、は大人しく雲雀の肩を掴んだ。
―――ここの扉が高くてよかった。
頭をぶつけたりしたら、いい笑いものになるところだった。
無機質な地下回廊がやがて和風の佇まいに変わるのを、雲雀の肩に乗ったままはなんとなく眺めていた。
大人しく自分の肩を掴んでいるに、雲雀の機嫌がわずかに上向いた。しかし、まだ、これでは駄目だ。
足早に行く雲雀がようやくを下ろしたのは浴室。
「ちょっ……待っ……」
待って、とが言い終わる前に、彼女を檜の浴槽に落とした。言葉の文もなく、落としたのだ。
ぼっしゃん、と重たい水音が響いて、飛び散った湯が雲雀の服に染みを作る。
広いから浴槽の縁で頭をぶつけることもないだろうし、湯もたっぷり張られているから浮力が働いて浴槽の底に背をぶつけることもないだろう。
なにより気を使って低い位置から落としたのだから、何事もないはずである。
彼女が雲雀の言い分を聞いたのなら、「気を使うところが間違ってるわね」と言っただろう。
ケホケホと何度か咳き込んだが、浴槽の縁に腕をかけて 呆れたような眼差しで目の前の幼馴染を見上げた。
「……何がしたかったのよ」
「そうだね」
膝をついた雲雀がの首筋に顔を埋める。
「匂いが」
「匂い?」
「そう。……あの男の匂いがした」
今は少しだけ、ましになったけれど。
逡巡の後、は雲雀の言うところの「あの男」に思い至ったのだろう。
ああ、と納得して、湯に濡れた服の袖を持ち上げて自分の鼻先に近づけようとした。
その腕を引き止めた雲雀を怪訝な顔で見返すに、「あんな男の匂いなんて嗅がないで」と呟いた。
の身に纏わりつく匂いだけでも不快なのに、彼女がそれを感じるなんて冗談じゃない。
それなのに彼女は「獄寺くんの煙草の匂いでしょう?」と事もなげに言ってみせた。
「あいつの名前なんて言わないでよ」
「なにそれ、やきもち?」
履いたままだった黒いヒールの靴を脱いで、はくすくすと笑う。
黒地に赤い花の刺繍の施されたスカートが水中でひらひらと揺れる様子は、まるで尾びれのようだ。
の白い頬に張り付いた黒髪は、湯に濡れてさらに色を濃くしている。
「そうだよ。だから、早くあの男の匂いなんて落としなよ」
そうしたら、この一か月会えなかった分まで君のことを抱きしめてあげるから。