アリスの森

冬に手をつなぐ

日番谷

 少女が十一番隊の隊舎から出ると、門に見慣れた人影があった。

「冬獅郎」

 その名を呼ぶと、彼は寄りかかっていた門から体を離して少女へと向き直った。
 駆け寄った少女が首を傾げる。忙しい少年が連絡もなしに来るとは珍しい。

「早く終わったから待ってた。たまには飯でも食いに行こうぜ」

 こくりと頷く少女の手に見慣れない色を見つけた。
 桜色の手袋だ。両手の薬指の付け根に、桃色のちいさな花飾りがついている。

「その手袋、どうしたんだ?」
「湯呑みを落としたら一角に怒られて」

 少女は自分の両手にはめられた手袋を見つめている。
 日番谷は黙って聞いていた。

「弓親が買ってくれたの。やちるとお揃い」

 そう言って、日番谷の前に両手を広げて見せた。
 つまり――

「手が寒さで かじかんで、湯呑みを落としたら斑目に怒られて、見かねた綾瀬川がそれを買ってきた、と」
「一角は落としたから怒ったわけじゃないよ。寒いのなら手袋でもしてろって」

 斑目の言うことは正論だが、この少女に実践は難しいだろう。
 何故なら彼女は鈍いのだ。寒いとか熱いとか痛いとか、そういったことに。

 ―――味覚はあるんだけどな。むしろ濃い味付けは苦手だし。

 日番谷がそんなことを考えていると、桜色の双眸が見つめてきた。

「なにが食いたい?」
「魚」
「わかった」

 ふたりは歩き出した。会話が途切れても気まずい空気はない。
 ないのだが、日番谷は幼馴染の少女の様子を気にしていた。
 こんな黄昏時は特に。
 案の定、色を変えていく空を見上げて、少女は立ち止まってしまった。

「おい、」

 少女の名を呼ぶ。
 ゆっくりと視線を寄越す少女の前に、手を差し出す。
 少女は手袋を片方だけ はずして、その手に重ねた。

「……なんで手袋はずすんだよ。寒いだろ」
「だって冬獅郎と手を繋ぐのに邪魔だもの」

 そう言って少女は、ふわりと笑った。

雲雀

 ―――やっぱり人が多いじゃないか。

 幼馴染の少女の願いを聞いて一緒に初詣へ来たのはいいが、人の多さに雲雀はうんざりしていた。

「まだこの程度は多いうちに入らないわよ」

 まるで雲雀の心中を読んだように少女が言う。
 尤も彼の顔を見れば それくらい察しはつく。

「こんな有象無象など気にせずにいればいいのよ」

 中学生らしくないことを さらっと言う少女の右手は、雲雀のコートの袖を握っている。
 人混みで はぐれないようにと握られた袖が、くいっと引かれた。

「なに?」
「お参りが終わったら、モツ煮が食べたい」
「キミ、女の子なんだから、もっと可愛いものを選びなよ」
「こういう屋台で可愛いものなんて無理でしょ。あ、後でチョコバナナも買って」
「……だいたい、モツ嫌いだろ」
「うん。だから野菜と蒟蒻と煮汁だけでいい」
「…………」

 常ならモツは彼女の兄が食べるのだが、今日は不在。
 必然的にその役目は雲雀に回ってくる。いつものことなので、もう何も言うまい。


 ふと、今まで感じていた重さがなくなった。
 振り返れば、それまで隣を歩いていた少女が立ち止まって、自分の右手を見つめている。

「どうしたの?」

 立ち止まったことによって、少女の体が人混みにぶつかる。こいつら邪魔だな、と雲雀が舌打ちした。
 当の本人は気にした様子もなく、右手から雲雀へと視線を上げた。

「―――ねぇ、恭弥」
「なに」
「手、繋いで」

 静かな声と共に、彼の前に少女の右手が差し出された。

「……急になに?」

 訝しむ雲雀の様子など気にせず、幼馴染は右手をちらちらと揺らす。

「あんまり手を繋いだことって なかったと思って」

 早く、と目で訴えている少女の右手を見つめる。
 別に手を繋ぐことに抵抗があるわけじゃない。
 ただ――、

「恭弥」

 名前を呼ばれれば諦めるしかない。
 ひとつ ため息を落として、少女の手をとった。

「―――やっぱり冷たい」

 思わず離したくなった手は、先に少女が強く握り返したことで そのままになってしまった。

藍兄弟

「ねぇ、楸兄様。月がとても綺麗よ」

 そう言って庭院を進む少女が楸瑛を振り返った。
 夜空を見上げてばかりで足元を見ずに歩く従妹に、さすがの楸瑛も心配して声をかける。

「空ばかり見ていると、そのうち転んでしまうよ」
「大丈夫よ。この庭院は目を瞑ったって歩けるわ」
「頼むから、本当に目を瞑ったりしないでおくれよ」

 舞うように歩を進めていた少女がようやく立ち止まり、後ろを歩く彼の方へと向き直った。
 少女の纏う外套がふわり、と揺れる。

「相変わらず楸兄様は心配性ね。私よりも夜空をご覧になってくださいな」

 ほら、綺麗でしょう――月を示す少女が嬉しそうに笑う。
 確かに庭院は綺麗に整えられているし、夜空に浮かぶ月も風流だが、寒さを推してまで散策する理由がわからない。
 楽しそうな従妹を見るのは彼としても喜ばしいことだが、如何せん今の季節は冬。
 ぐっと冷え込んだ外気に、吐く息も白くなっている。
 この調子では、少女の体もさぞや冷えていることだろう。

「そろそろ室へ戻ろう。風邪をひいてしまうよ」
「もう少しだけ。ねぇ楸兄様、いいでしょう?」
「いい子だから聞きわけておくれ」

 楸瑛の言葉と優しげな藍色の瞳に、不承不承といった感じで少女は応じた。
 元より彼を困らせるつもりはなかった。


「ねぇ、楸兄様」

 従妹の少女が彼を呼ぶ時に「ねぇ」と甘えたように呼ぶのは、幼い頃からの癖である。
 今よりも ちいさい頃は、それこそ猫の子のように「ねぇねぇ」とついて歩いていた。
 それを思い出して笑いながら、楸瑛は「なんだい?」と聞いた。

「室まで手を繋いでくださいな」

 その言葉に楸瑛は立ち止まってしまったことを後悔した。聞こえない振りをして歩いていれば よかった、と。
 少女はにこりと笑って楸瑛を見上げている。

「…………」
「ねぇ、楸兄様」

 黙りこんでしまった従兄の名をもう一度呼び、少女は夜目でもわかる白い右手を差し出した。

「ならば、私が繋いでやろう」

 声と共にその手を取ったのは楸瑛ではなかった。

「龍蓮!!」
「愚兄 其の四は何をしている。こんなに冷えた手をそのままにして」

 突然の登場に驚いている少女の右手だけでなく、左手も包み込んで龍蓮は言った。

「さあ、こんな愚兄など放っておいて早く室へ戻るぞ」
「―――龍蓮、両手を繋いでいては歩き難いだろう」
「しかし、こんなに冷えた手をそのままにできるものか」

 睨み付けてくる弟と、じっと見上げてくる従妹に、楸瑛は諦めのため息をついた。

「―――片方こちらへ」

 その言葉に少女は今宵一番の笑みを浮かべ、差し出された楸瑛の手に己の右手を重ねた。
 龍蓮の言葉どおりに ひやりとした手が重ねられ、楸瑛は再度ため息をついて手を引いて歩き出した。
 可愛い従妹の願いなら、多少の無理はしても叶えてやりたいのは本当だ。
 しかし――

「いつものことながら、冬に君と手を繋ぐのは覚悟がいるね」
「でも結局、楸兄様は手を繋いでくださるわ」