ValentineDay
日番谷 壱
「たっいちょー、ハッピーバレンタイン!」
始業時刻を一刻ほど過ぎた頃、十番隊執務室の扉が乱暴に開かれた。
その声と姿に十番隊隊長・日番谷 冬獅郎は、ため息と共に書類に隊長印を捺した。
「なんですか隊長。朝から暗いですよ」
開けた時とは比べ物にならないくらい静かに扉を閉めてそう言ったのは、同隊副隊長の松本 乱菊。
「挨拶」
「はい。おはようございます、隊長」
「ああ、おはよう。遅刻だぞ、松本」
「すみません。隊長のために自分を磨きすぎました」
「……俺のためを思うなら、仕事をしっかりやってくれ」
やってますよー、と笑いながら、松本は持っていた包みを日番谷の目の前に差し出した。
紫色のラッピングペーパーに包まれた小箱は、おそらく菓子なのだろう。
先程 松本が叫んでいたように、今日はバレンタインデーだ。
「はい、隊長。日頃の感謝の気持ちを込めまして、チョコレートケーキです」
「……ありがたく受け取る」
「どういたしまして。ちなみにバレンタインのお返しの相場は、三倍だそうです」
「去年聞いた」
「でも私を含めた殆どの十番隊の女の子たちは、純粋に感謝の気持ちで渡してますので気遣いは無用ですよ」
「それも、去年聞いた」
甘い物が得意でない日番谷にとって、今日の贈り物たちは頭の痛い悩みだろう。
しかし「感謝の気持ち」と言われてしまえば無碍にはできない自隊の隊長に、松本はふふっと笑った。
「……いつも悪いな」
三倍返し云々はともかく、貰った物に対して普通に返すだけでも日番谷にとっては大変な作業であった。
それを見かねた松本が女性隊士たちに働きかけてくれたのだ。義理チョコに見返りを望まない、と。
元々皆そんなつもりで渡していたわけではなかったので、松本の意図を汲んでくれた。
最近では「感謝の気持ちに、お返しは不要です」という言葉が添えられずとも、互いに承知している。
「なんのことですか?」
当の本人はこんな具合だ。
「にしても、凄い色のラッピングだな」
「私をイメージしてみました」
呆れて言う日番谷に、松本はそう言ってまた笑った。
日番谷 弐
残業して仕上げた書類を揃えて、日番谷はふうっと一息ついた。
窓の外を見れば、上弦の月。
冴えた空気と雲のない夜空に、月は静かに浮かんでいる。
ふと、静かな気配がした。
他の者ならその気配に気付きはしなかっただろう。
月明かりと同じく、其処にあるのに静か過ぎて見落としてしまいそうな空気。
よく知る気配。
その馴染んだ気配が近付いてくるのに、日番谷は知らず口元に笑みを浮かべた。
扉の前に立った気配が明確になる。
そして――
「冬獅郎」
静かに名を呼んだ。
「開いてる」
答えた日番谷の言葉に、控えめに扉が開き ひとりの少女が姿を見せた。
長い黒髪を背に流し、桜色の瞳で日番谷を見つめている。
十一番隊に所属する、幼馴染の少女だ。
「現世での任務は終わったのか?」
日番谷の言葉に少女はこっくりと頷いた。
「シロは? 仕事、終わった?」
「ああ、これから帰るところだ」
「お疲れ様。帰る前に――」
扉を閉めて少女が歩くと、甘い匂いが揺れる。
その匂いは彼女の持つ盆からするようだ。
日番谷の表情に問いを察したのか、少女は微かに笑うと盆から小振りのマグカップを持ち上げ、書類を避けて執務机に下ろした。
甘い匂いの正体は――
「チョコレート?」
白いマグカップの中で、こげ茶の液体がとろりとしている。
「冬獅郎、甘いの好きじゃないだろうけど、少しだけだから」
その声にマグカップから視線を上げれば、少女は桜色の瞳を細めて笑っていた。
こんなに嬉しい気持ちを、果たして三倍にして少女へ返せるだろうか。
口にしたチョコレートミルクは予想よりも飲みやすい甘さで。
しかし、とびっきり甘い味がした。
雲雀
目が覚めたら、甘ったるい匂いが部屋に充満していた。
いや……甘ったるい匂いに目が覚めた、というべきか。
どちらにしろ、自分の部屋が甘い匂いに侵されているのは事実だった。
「―――甘ったるい」
雲雀がソファから体を起こすと、部屋に幼馴染の少女の姿はなかった。
対面式のキッチンカウンターの向こうから、カチャカチャと音が聞こえる。
ここからは死角になっているので見えないが、彼女はそちらにいるのだろう。
「ねえ」
雲雀の呼び掛けとも言えない声に、赤いエプロン姿の幼馴染が顔を見せた。
その手にはオーブンの天板。
「おはよう。起きたのね」
おはよう、と言っても現在の時刻は午後1時を少し回ったところ。
休日特有の遅めの朝食の後、雲雀は惰眠を貪っていたのだ。
「なんだか甘ったるい匂いがするんだけど」
「ブラウニーとクッキーの匂いね」
しれっと答える。
渦中にいる少女は、この甘い匂いが気にならないようだ。
ついでに雲雀の不機嫌そうな表情も気にしていない。
「ブラウニーとクッキー?」
問えば、少女は上機嫌で近付いてくる。
傍らまで来ると天板からクッキーをひとつ摘みあげて、雲雀に差し出した。
少女の指に摘まれたクッキーをそのまま口にすると、控えめな甘さが広がった。
「それにしても珍しいね。急にどうしたの?」
「あら、バレンタインよ」
「―――3日後だろ」
「平日なんて面倒くさいわね」
実に彼女らしい回答だ。
「恭弥が当日がいいなら、もう一度作るけど」
「……こんな短期間に何度もいらないよ」
雲雀がクッキーに手を伸ばすと、少女が天板を遠ざける。
そして先程と同じように、少女の指先がバレンタインにふさわしい愛らしいクッキーを摘みあげた。
やはり上機嫌な幼馴染の笑みを視界に写して、雲雀はハートの形をしたクッキーに噛みついた。
「ところで――」
「消費期限が今日までの牛乳で作ったお菓子の消費期限って いつになるのかしら」
「…………」
ブラッド
「そういえば余所者のお嬢さんに聞いたのだが、」
もったい振った口調で切り出したブラッドに、目の前の少女は自分のティーカップに視線を落としたまま問い返した。
「アリス?」
最近のボスのお気に入りである余所者の少女の話に、「またか」という気持ちになる。
アメジストの瞳を閉じて少女がため息を落とした。目の前に座る彼に気付かれないように。
仕事を終えた報告に訪れただけなのに、ブラッドに引き止められて お馴染みのお茶会に参加させられてしまった。
彼の腹心か双子の門番たちでも いればよかったのだが、あいにく今回のお茶会には少女だけしか呼ばれていない。
ブラッドの話を聞くのも、相槌を返すのも少女だけ。
エリオットがいれば喜んで相手をしていてくれただろう。
いや、きちんとボスの話を聞けと、うるさく言ったかもしれないか。
―――疲れているから早く休みたいのに。
意識を他所へやっていた少女の名が呼ばれ、その瞳をそっと開くと、ブラッドがため息をついて此方を見ていた。
ため息をつきたいのは少女の方だというのに。
「私との会話はそんなに退屈かい? それとも、それ以上に君の意識を奪う大切なことでもあるのかな」
「……いいえ、ボス」
「君にとって私以上に大切なものが出来たら、遠慮せずに言うのだぞ。君は可愛い可愛い部下だからね。上司としても、相手の男にはきちんと挨拶をしておかなくてはいけないから」
そう言ってブラッドは、彼がいつも持っている愛用のステッキを撫でた。
そのステッキがただの装飾杖でないことは少女もよく知っている。
どんな挨拶をする気なんだか――今度は隠すことなく少女がため息をついた。
少女が自分の思惑に気付いたことを承知して、ブラッド=デュプレは楽しそうに笑う。
「冗談などではないよ」
「……承知していますわ」
「それは良かった」
その笑み、その声、その顔、その物腰。個性的な帽子と服装であっても、ちっとも彼の魅力は薄れやしない。
「―――アリスがどうしたんですか?」
「ああ、あのお嬢さんから興味深いことを聞いたのだよ」
話を聞きながら少女はティーカップに口をつけた。
「彼女の世界では『バレンタインデー』という日があって、恋人たちはその日に互いに贈り物をするそうだ」
「そうですか」
「贈る物は花やケーキ、キャンディーボックス、カードなど様々だという」
「そうですか」
「お茶会に菓子は必需品だと思わないかい?」
「…………わたくしに どうしろと」
呆れ顔の少女に、ブラッドは魅惑的な笑みを浮かべる。
彼に尋ねずとも言いたいことは わかっているのだ。
「―――貴方は?」
彼の話では「互いに贈り物をする」と言っていた。
ならば――
「貴方は何をくださるのですか?」
「君が望むものなら、どんなものでも。なんならハートの女王の首でも取ってくるが?」
「それはいりません。――そうですね」
くいっと紅茶を飲み干して、空になったティーカップを彼の方に差し出した。
「薔薇を、」
差し出されたカップに、ブラッドが紅茶を注ぐ。
湯気と共に、紅茶の香りが漂う。
「貴方の大切な薔薇園の薔薇を、全部わたくしに くださいな」
やっと少女が笑った。艶やかに、ブラッドを見つめて。
「いいだろう。では、手始めにこの薔薇を君に贈ろう」
テーブルの上に飾られていた薔薇を示して、ブラッドが椅子から立ち上がる。
「残りは今すぐに……と言いたいところだが、一眠りした後だな」
「わかっていてお茶会に付き合わせたのですか」
「久し振りに会う君と、ゆっくり紅茶を楽しみたかったのだよ」
何度目かのため息を落として、少女も立ち上がった。
淹れられた紅茶を惜しくも思ったが、今、目の前にある久し振りの彼との時間と休息とは比べるべくもなかった。
田島
前もって練習しておけばよかった、と思っても後の祭りで。
平日ではなく休みの翌日だったなら、と恨みがましく思ってみたり。
結局、毎年 同じことを思う繰り返し。
神様、人間は学習する生き物だというのは本当ですか?
せめて最後の隠し味。
お約束過ぎて恥ずかしいけど、コレを入れなきゃ始まらない。(あれ? 最後だから始めるも何もないか? まあ、いいや)
あとは明日 早起きして、朝練に行く前の幼馴染を捉まえなくては。
「いってきまーす」
隣家から聞こえる元気な声に、あわてて玄関を飛び出した。
「ゆーちろー」
飛び出した外は、予想以上の寒さ。
立春過ぎたら春なんて、うそばっかり。なに、この寒さ。
いつもだったら一言ぼやいてみるのだが、今朝はそれどころじゃない。
自転車を漕ぎ出そうとしていた幼馴染の少年を、寸でのところで引き止めることに成功した。
「おー、おはよ。どした? 今日は随分 早いじゃん」
「おはよう。ちょっと待って!」
カバンに手を入れると、目的の物はすぐに見つかった。
黄色と白のリボンが揺れる、サーモンピンクでラッピングされた箱。
「はい、悠一郎」
ちいさい頃からの恒例行事だが、この年齢になると ちょっと恥ずかしい。
箱を差し出すと、田島はその正体を察したようで すぐに笑みを見せた。
嬉しそうに笑う田島に、少女はくすぐったい気持ちになる。
「サンキュー」
「どういたしまして。トリュフだから あんまり温かいところに置いちゃダメだよ」
初めて作ったトリュフは、チョコレートの湯煎加減が難しくて 形にするのに少し手間取った。
しかし、喜んでもらえたので良かった。
「それ、兄ちゃん達の分?」
カバンから覗く箱に田島が問う。
彼の手にあるチョコの箱と同じこれらは、田島家の長男と次男の分である。
「うん。おじさん達の分もあるよ」
「―――同じ大きさ」
「だって、まとめて買った箱だし。もっと欲しいなら、家に少し残ってるから帰ってきたらあげる」
「残ってんなら、貰うけど。そうじゃなくて――中身、同じ?」
「一緒に作ったから、だいたいは同じだけど……」
「『だいたい』ってことは、少しは違うってことだよな。なあ、どこが違う?」
「どこが、って……」
(なに? なんで、こんなことになってるの? こんなゆっくりしてて、朝練は大丈夫なの?)
「なあ、」
田島はなんでもない顔で聞いてくるが、少女の顔は徐々に赤みを帯びてくる。
「…………悠一郎のは愛情8割増し!」
―――こんな恥ずかしいこと、わざわざ言わせないでよ。