アリスの森

そんな日常

『明け方』 十年後雲雀

 屋敷の中が やけに騒がしくなった。
 その様子を まどろみの中で感じていると、数人の気配が近付いてくる。

 ―――騒がしい。

 自分が同じことをされれば、それはもう怒るだろうに。
 原因であろう わがままな幼馴染に心の中でため息をついて、静かに瞼を押し上げた。
 完全に覚醒してしまえば、まどろみ越しではない騒ぎが耳につく。
 放っておいても構わないのだが、目が覚めてしまったので仕方なく暖かい布団から起き上がる。
 衣桁に掛けられたストールを羽織って廊下に出るのと、騒ぎの元が廊下の角を曲がって姿を現したのは同時だった。

「……ずいぶんと男前が上がったわね」

 その言葉に不機嫌な表情を隠しもせず、雲雀 恭弥は頬についた血を左手の甲で拭った。

「恭さん、まずは手当てを……」
「草壁、うるさいよ」
「しかし――」

 おそらく玄関から ずっとこの繰り返しなのだろう。草壁が困ったように此方を見るので、今度は正真正銘ため息を吐いてみせた。
 何処で何をしてきたのかは知らないが、先程 乱暴に拭った頬には 決して ちいさくはない傷があった。他にも あちらこちらに裂傷があるし、右の手首は少し腫れている。服も埃っぽく、所々血で汚れていた。
 満身創痍と言うほどではないにしても、雲雀にしては珍しく ぼろぼろではあった。

「まったく……いい歳して、やんちゃも程々にしなさいよ」
「別に、たいしたことないよ」
「死にはしないでしょうけど。……血は止まってるわね。そっちの腕は?」
「折れてない」
「念のために、後で病院に行きなさい」

 面倒くさいという顔をした雲雀に、「兄さんに連絡しておくから、今日中に行きなさいよ」と念を押す。他の傷はともかく、骨ばかりは見えないので なんとも言えないのだから。
 草壁に雲雀の今日の予定を確認しながら 薬箱の手配を頼んでいると、雲雀が「ねぇ」と呼んだ。

「そんなことより、お腹が空いたんだけど」

 頭ひとつ分 上にある雲雀の顔を見上げて、ぱちりと瞬きをした。
 その反応が気に入ったのか、雲雀が面白そうに笑う。
 あぁ、不機嫌な顔より その方がずっといい。そんな関係のないことを思っていると、雲雀がさらに続けた。

「朝ご飯 作ってよ」
「朝ご飯」

 朝に食べるご飯、のことだ。
 朝、あさ。

「……今、何時だか わかってる?」
「草壁」
「……3時です」
「とても朝ご飯を食べる時間ではないわね」
「そうかい?」

 彼の自分勝手なところは、子どもの頃から ちっとも変わってない。そして、結局それを容認してしまう自分の甘さも。
 深いため息をひとつ吐き出して、人差指を浴室の方へと向ける。

「恭弥はその汚れを落としてきなさい。草壁は任務から帰ってきた者たちに休息を。で、草壁も食べる?」
「いや、恭さんのことを任せてもいいのなら、俺も少し休ませてもらう」
「いいわよ」
「それでは失礼します」

 草壁が廊下の向こうに消えた頃、雲雀がぽつりと呟いた。





「なんで、草壁も誘うのさ」

 また、不機嫌そうな表情。せっかくの綺麗な顔が勿体ない。
 そもそも、誘ったところで草壁が応じるわけがないのに。

「そんな つまらないことに嫉妬してないで、早く汚れを落としてきなさいよ」


 そうしたら、お帰りのキスくらい してあげるから。

『昼』 イギリス

 扉を開けた途端、強い風が吹き抜けた。
 思いがけない衝撃にノブを握る手に力が込められ、反射的にアメジストの瞳を閉ざす。
 それに気付いたイギリスが すぐに窓を閉めてくれたので、ほっと一息ついて 静かに扉を閉ざした。

「悪い。大丈夫だったか?」

 そう言って、イギリスが風で乱れた髪を直してくれる。
 手櫛で軽く整えて、最後に額へキス。
 お礼に少女も少し背伸びをして、イギリスの頬へと接吻けた。

「窓の外がどうかした?」

 扉を開けた時に見えたイギリスの行動を思い起こして、ことりと首を傾げる。
 少女が見る限りでは、雲ひとつない青空と中庭の緑が見えるだけ。特に変わったところなど ないように見えるが。

「ん、別に。ただ、今日は天気がいいと思って」
「そうね」

 確かに、朝から眩しいほどの太陽の光が降り注いでいて、曇る気配もない。
 イギリスは日光浴というわけでもないだろうが、南側一面に設えられた窓辺に寄りかかっている。

「お仕事しなくていいの?」
「書類は終わった。午後の会議も明日になったから休憩だ」
「あら、タイミング悪かったわね」

 少女が持っていた書類をひらりと揺らす。

「新しい書類か?」

 本日 十八組目の紙の束に、イギリスは眉を寄せながら書類を受け取る。
 そして、ざっと目を通してから、書類を机の上に放り投げた。

「いいの?」

 少女は仕方ない、というように笑って尋ねた。

「あー……いい。後でやる」

 急ぎじゃないし。――そう呟いて、窓に寄りかかったまま、イギリスは萌黄色の瞳を閉ざした。
 少女の方も、別段それを咎めるつもりもなかった。イギリスがやらないというなら、それでいいと思っている。
 そもそも こんなデスクワークは、『国』にやらせないで人間たちが やればいいのだ。

「休憩するなら、紅茶でも淹れてあげる」

 その言葉にイギリスが目を開ける。
 自分を見下ろす その瞳は、少女のお気に入りだ。
 愛しくなって、イギリスの首に腕を回して引き寄せると、薄い皮膚越しに萌黄色の瞳へ接吻けた。本当は、その萌黄色に直接キスしたかったのだけれど。

「紅茶 淹れてあげる」

 イギリスの顔を覗き込んで、にこりと微笑む。
 リクエストは?――そう尋ねると。
 さり気なく少女の腰へ腕を回していたイギリスは、あーとか、んーとか、不明瞭な言葉を紡いだ後に、自分の額と 少女の額をこつんと重ねて「いらねぇ」と呟いた。

「いらないの?」
「あぁ」
「―――なら、他に欲しいものは?」

 イギリスが甘えたように 抱きしめる腕に力を込めるので、少女も助け舟を出してやる。

「……膝枕」
「うん?」
「休憩するから膝枕」

 言って、触れるだけの接吻けを落とすイギリスに、少女も同じようにキスで返して了承の意を示した。