アリスの森

春を告げる

日番谷

 ぽかぽかと縁側を照らす、陽の光の中。
 ごろりと横になって、子猫がふたり。
 銀髪の子猫は、翡翠の瞳を真っ青な空へと向けて、
 黒髪の子猫は、桜色の瞳を手元の本へと向けている。

 ぽかぽか、ぽかぽか。

「先週は雪が降ったってのに、今日はすっかり春めいてるな」
「風も」
「ああ、あったかいな。このまま寝転んでたら、本当に寝ちまいそうだ」
「シロ、好きだものね」
「お前は夕方に寝るのが好きなんだろ」
「うん」

 ぽかぽか、ぽかぽか。

 つい、と。黒髪の子猫が、手元の本から桜色の瞳を上げた。
 途切れた会話と静かな寝息に、傍らを見やる。
 うと、と。銀髪の子猫が、仰いでいた空から翡翠の瞳を閉ざしていた。

 そこに、年若い少女の声が響いた。
 黒髪の子猫は桜色の瞳を瞬いて、自分たちを呼ぶその人物へと歩いていく。
 銀髪の子猫は翡翠の瞳を閉じたまま、音もなく歩いていくその気配を辿る。


「雛森、なんだって?」

 やがて戻ってきた気配に、銀髪の子猫が翡翠の瞳を開く。

「苺を」

 いつの間にか起きた気配に、黒髪の子猫が桜色の瞳を向ける。

「もうイチゴの時期か。やっぱり春なんだな」
「梅の花、もう咲いてたね」

 ぽかぽか、ぽかぽか。

「こんな風に、お前とふたりで ぼんやりするのも久し振りだ」
「そうだね」
「静かだし、あったかいし、昼寝にもってこいだ」
「あっ、寝るの待って」

 黒髪の子猫が起き上がった。

「苺、冷やしてあるの」

 銀髪の子猫も起き上がった。

「今、食うのか?」
「今」

 黒髪の子猫が、ぱたぱたと走り去る。
 どうしても、今、食べたいようだ。
 銀髪の子猫が、大きく伸びをした。





 目の前の置かれた苺は、赤く熟れている。とても甘そうだ。
 黒髪の子猫が赤い苺を摘んで、そっと口に運んだ。
 苺の甘さに桜色の瞳を細める。

「…………」

 その様子を見ていた銀髪の少年は眉間を寄せた。
 何気ない動作だったはずなのに、途端に落ち着かない気持ちになる。

 ―――馬鹿か、俺は。

 正体不明のざわめきに、悠長に昼寝だなんて言ってられなくなってしまった。

雲雀

「なにしてるの?」

 放課後、見慣れた応接室で、見慣れた幼馴染の少女が窓枠に腕をかけて、陽だまりの中、外の様子を窺っていた。

 ひとつ訂正がある。
 先程、見慣れた、と言った応接室の内装は、昼と比べて少し変わっていた。
 ソファのひとつが窓辺に移動されている。
 背を壁につけるようにして置かれ、少女はソファに逆向きになって膝をついていた。

「君が動かしたの?」
「まさか」
「じゃあ、誰が動かしたのさ。この僕の断りもなく」
「私が動かそうと思ってたら、手伝ってくれたのよ」

 やっぱり少女が移動させたのではないか。
 雲雀は、ため息をついてソファに座った。少女のいる方ではなく、移動されていない方のソファに、だ。
 それについては気にした素振りも見せず、少女は窓の外へと視線を戻した。

「誰が手伝ったって?」

 風紀委員長である自分の許可もなく、応接室の内装を変えるなんて。どうやら、咬み殺されたいらしい。

「風紀委員」
「当たり前だろ。なんて名前だったのか聞いてるんだよ」
「私が知ってると思ってる?」

 知っているわけがなかった。
 この幼馴染は、他人の名前と顔を覚えないのだ。

「私の名前を知ってたから、同じ学年じゃないの?」
「君の名前を知らない奴が、この学校にいるとは思えないけど」

 整った外見、常に首席の成績、一筋縄ではいかない性格、諸々の条件から鑑みても有名人だ。
 当の本人はそんなことには興味なく、窓の外を見つめたままだ。
 何をそんなに、真剣に見つめているのか。

「なにしてるの?」

 同じ質問を繰り返してみた。
 やがて少女は首だけで振り返って、左手の親指と人差し指で丸を作った。

「これくらいのスズメがいるのよ」
「そんなに、ちいさいわけないだろ」
「ちいさいわよ。ちまちましてて、可愛いの」

 表情には出ないが楽しそうに話す少女に、雲雀が立ち上がった。
 少女の視線はすでに窓の外。
 その少女の後ろから のぞき込むと、階下の庭にスズメが何羽かちょこちょこと歩いていた。

「……ちいさい」
「でしょ。スズメの子どもかしら」

 子スズメは何かをつまんでは、飛び跳ねるように歩く。
 何羽か集まっているのが視界に入る。

「群れてるのを見ると、咬み殺したくなる」

 その言葉が聞こえたわけでもないだろうが、スズメたちが一斉に飛び立ってしまった。
 幼馴染の少女が振り返って雲雀を睨んだ。

「やめてよ。折角、餌付けしたのに」

 スズメのいなくなった庭からは興味を失ったらしく、少女がソファに背を沈める。
 その膝に雲雀が頭を乗せれば、少女は「足が痺れるまでよ」と笑った。

静蘭

 甘い匂いに誘われてみれば、庭院の奥に隠されているかのように咲く水仙の花。
 その水仙の中に佇む少女が、静かに振り返る。
 何度か会ったことのある幼い少女とゆっくりと話をしたのは、これが初めてだったと思う。





 通りの中で彼女を見つけたのは偶然だった。
 夜色の長い髪と見慣れた後姿に少女の名を呼ぼうとして、寸でのところで飲み込む。
 こんな人通りの多いところで声高に呼ぶには、彼女の身分と境遇は複雑すぎる。
 仕方なく静蘭は、足早に少女へと近付いていった。

「藍姫」

 すぐ後ろでかけられた声に特に驚いた様子もなく、夜色の髪を揺らして少女は静蘭を見上げた。
 その様子に、声をかけるよりも先に静蘭の存在に気付いていたことを知る。

「お久し振りですね、静蘭」

 藍色の瞳を細めて静蘭を見上げる。

「お久し振りです。こんな所でどうされたのですか?」
「どうということはありませんわ。暇つぶしの散歩ですもの」
「―――藍家の直系に近い姫君が、供も連れずに市井を出歩くなど不用心ですよ」

 呆れた表情の静蘭に、やはり少女は柔らかく微笑んだまま。
 話好きの少女が、静蘭と話す時に限って 口数が少なくなることに気付いたのは いつだったか。
 いつも今のように柔らかく微笑んで、静蘭を見つめている。
 その美しい笑みを向けられるのは悪くはない。しかし、自分相手では話にならない、と言われているような錯覚に陥るのも事実だった。

「お時間があるのでしたら、少し遠出をしませんか?」
「構いませんわよ。どちらに連れて行ってくださるのかしら?」
「行くまでの楽しみにとっておいてください」





 そう言って案内された地には、紅白の梅が見事に咲いている。
 感嘆の声をあげて軽やかに駆け出す少女の後ろを、静蘭はゆっくりと歩いた。

「静蘭、早くいらっしゃいよ。とっても綺麗よ」
「喜んでいただけたようで安心しました」
「ええ。連れてきてくださって、ありがとう。梅が咲くと春が来たって感じがして、心が躍るわ」
「存じ上げております。昔もそう仰っていましたから」
「貴方にお話したことがありましたかしら?」
「ずっと昔に。あの時は水仙が咲いていて、もうすぐ梅が咲くから楽しみだと仰っていました」

 静蘭の言葉に少女は藍色の瞳を瞬いて、それから悪戯を思いついたように笑った。

「それは尊い御方にお話した時ね。なんで静蘭がご存知なのかしら」
「さあ、なんででしょう」

 惚けたように返す静蘭に、藍姫がくすくすと笑う。
 その笑みに誘われたように、何処かで鶯の声がした。

「あら、鶯だわ。やっぱり春ですのね」

 静蘭があたりを見渡した。声はすれども、姿は見えず。

「鶯はとても警戒心の強い鳥なのよ。雅やかに鳴くのに、あの鳴き声も縄張り宣言なんですって」

 歌うように語られた内容に、静蘭は思わず傍らの少女を見てしまった。

 ―――雅やかに鳴くのに、とても警戒心の強い鳥。それはまるで……

「貴方みたいね、静蘭」

 裏があるのか ないのか判じかねる笑みで、藍色の瞳の少女がそう言ったので。
 静蘭は「それは貴女の方です」という言葉を、苦い思いで飲み込んだのだった。