アリスの森

WhiteDay

壱 side日番谷

 気鬱な思いを吐き出すと、目の前の少女が箸を止めて日番谷を見た。

「味、薄かった?」
「いや、大丈夫だ」

 律儀に面取りと隠し包丁を施された、ふろふき大根に箸を入れる。
 少女の作る薄味の料理に舌が馴染んでいる日番谷が、今更、否を唱えることもない。
 「うまい」と言った日番谷に、桜色の瞳は尚も見つめてくる。

「十番隊は忙しい?」
「この時期はどこの隊も似たようなもんだろ」

 度重なる残業に疲れてはいるが、それくらいで気鬱になるようでは護廷十三隊の隊長は務まらない。
 日番谷を悩ませていること。それは目の前の少女に関することであった。


 一月ほど前になるが、現世の行事に乗じて、幼馴染の少女から ささやかな贈り物をされた。
 本当にささやかなものであったのだが、日番谷にとっては とても嬉しい出来事だったので、なんとか少女の喜ぶ顔が見たいと思った。
 思って一月が経ってしまった。
 また ため息をつきそうになるが、桜色の瞳が見つめていることを思い出して、寸でのところで飲み込んだ。

「明日の朝は早めに出るから、飯はいらない」

 お前ひとりでも、ちゃんと食えよ。――そう付け加えると、少女は曖昧に頷く。
 その様子に眉を顰めて「ちゃんと食えよ」と念を押すと、少女が今度は笑って「うん」と答えた。





 外が白む前に日番谷は目を覚ました。
 静かに布団を抜け出すと、寝起きの少しかすれた声で名を呼ばれた。

「悪い、起こしたか」

 そっと手を伸ばして、手触りの良い黒髪に触れる。
 少女の眠たげな雰囲気に笑みがこぼれた。

「寝てていい」

 こくりと頷く気配に、名残惜しく思いながら手を離した。
 この少女に触れられる人間が自分だけであれば、と何度思ったか。

 ―――引き止めてくれればいいのに。

 そんなわがままを言うような少女ではないのは わかっている。

「冬獅郎」
「なんだ?」
「いってらっしゃい」

 眠りの淵に沈もうとする少女の告げた言葉に。

「ああ、いってくる」

 その耳元で優しく囁いて。
 名残惜しく思いながらも、あとはこれらに少女の眠りを見守って貰おう、と。


 少女の枕元に、桃の花と桃の金平糖を置いた。


 少女が目覚めて最初に思うのが、自分であることを願って。

弐 sideヒロイン

 ぼんやりとした意識の中、隣で動く気配がして少年の名を呼んだ。
 そういえば昨夜、今朝は早く登局すると言っていたか。
 目を開けても暗闇なのは、寝ている自分を慮ってのことだろう。

「悪い、起こしたか」

 日番谷の手がゆっくりと髪に触れた。
 何十年経っても、彼は触れる時、どこか躊躇いがちに手を伸ばす。
 柔らかに触れる手に意識がまどろむ。

「寝てていい」

 少年の言葉に微かに頷くと、優しい手が、指が離れていき、そのことを残念に思った。
 彼とて忙しい身だ。いつまでもこうしていられないのはわかっている。

 ―――引き止められればいいのに。

 詮無きことだ。

「冬獅郎」
「なんだ?」
「いってらっしゃい」

 眠りの淵に沈もうとする意識の傍らで告げれば。
 「ああ、いってくる」と囁く少年の声が近くで聞こえた気がした。





 目を覚まして最初に触れた感覚は、仄かな春の薫りだった。
 体を起こして薫りの行方を探す。


 枕元には、桃の花と。

「金平糖……?」

 見覚えのある和袋は、たまに訪れる店のものだ。
 そろりと手を伸ばして持ち上げてみる。

「桃の金平糖」

 日番谷が置いていったことは察しがつくが、何故置かれているのかが わからなかった。
 しばらく首を傾げて、ふと思いついた。

 ―――バレンタインのお返し、かな?

 少年に深い意味がないことは承知しているが、あまりにも嬉し過ぎて。

 ―――どうしよう、やっぱり嬉しい。

 表情が弛むのがわかったが、止められそうもなかった。