アリスの森

指先

日番谷

「ねぇ、冬獅郎」

 傍らで地図を広げていた幼馴染の少女が、くいっと日番谷の袖を引いた。
 読んでいた本から顔をあげれば、桜色の瞳が柔らかく見つめてくる。

「どうした?」
「此処……どうなってる?」

 少女の白い指が紙面をたどる。
 やけに印象的な薄色のちいさな爪を見つめながら。
 広げられた古紙の様子と書かれている建物や道を検分する。
 ずいぶんと――

「古い地図だな」
「四番隊にいた頃の」
「ああ、だから地下水道の出入口が載ってるのか」

 日番谷は地図に視線を落とす。
 周囲の建物から割り出した目的の場所は、十番隊の隊舎近く。今は使われていない建物だった。
 しかし、そこに至る道は別の建物が建てられているため、地上からの通行はできなくなっている。ある意味、陸の孤島だ。

「とはいえ、屋根伝いに行けば簡単にたどり着けるけどな」

 少女は日番谷の教えた建物を、さらさらと地図上に書き起こしていく。

「この道はこっちまで延びてるぞ。あと、この建物はもう取り壊されてる。――で、」

 促されるように少女がちらり、と地図から顔をあげる。

「なにに使うんだ?」
「鬼ごっこ」
「……お前ら、仕事してんのか?」

 してるよ、と少女が言う。
 日番谷の呆れた声にも、少女が悪びれた様子はない。

「あ、此処」

 地図を覗き込む日番谷の耳元で、少女の柔らかい声が響く。

「桜が咲きそうだった」

 そう言って再び古紙の上をなぞる、少女の白い指。
 薄色のちいさな爪のついた、その指先に。
 日番谷は己の指先をそっと重ねて、絡めとった。





 何気なく絡めとられた己の指先が、少年の指先とゆるく絡められ。
 すべるように離され、また絡められる様子を。
 指先を絡めて あそばれる様を、少女は静かに見ていたが。
 少女がふと、呟いた。

「冬獅郎の手の方が、やっぱり大きいね」

雲雀

 鍵の開く軽い音がして、帰宅した少年を玄関まで出迎えた。

「おかえり、恭弥」
「ただいま」

 少女の持つ天板と、甘い匂いに雲雀は眉を顰めた。

「また焼いてたの?」
「また焼いてたの」

 雲雀の言葉を同じように返して、少女はクッキーをひとつ差し出した。

「そういう恭弥は、また喧嘩してきたの?」
「群れてる奴が悪いんだよ」
「そんな有象無象など、放っておけばいいって言ってるのに」

 呆れている少女に返す言葉がなくて、雲雀はおとなしく差し出されたクッキーを口にした。

「消毒してあげる。早く手を洗ってきて」

 珍しく顔に傷なんか つけてきて。と、少女が不満を述べれば。

「舐めとけば治るよ」

 雲雀の口答えに、少女はにっこりと笑った。

「万一傷が残ったり、膿んだりしたら、私の執刀患者 第一号になってくれるのね」
「……普通、舐めてあげる、って言うところじゃないの」
「どこの普通よ。つべこべ言わず、手を洗ってきて」

 医者志望の少女は、こんな時 手厳しい。


 慣れた手つきで消毒を済ませて、少女はちいさな塗り薬の蓋を開けた。
 華奢な指先が軟膏をすくって、雲雀の頬に伸ばされる。
 見慣れた塗り薬は少女の父親が、幼い時から持たせているものだ。専ら使うのは、雲雀に対してだが。

「相変わらず器用な指だね」

 料理をしたり、裁縫をしたり、細かい作業を器用にこなす少女の指は、昔に比べれば大きくなったが、それでも華奢ですぐに折れてしまいそうに思えた。

「手がかかる誰かさんのおかげね」

 ぺたりとガーゼが貼られる。邪魔なそれに雲雀が眉を顰めたが、少女はくすくすと笑うだけだ。
 外す気のない少女に、雲雀は嘆息した。
 そんな雲雀を楽しそうに眺めて、ガーゼの上に少女の華奢な指先が触れる。
 そうっと撫でるのを雲雀は黙って見つめていた。
 怪我をした雲雀に消毒をした後、少女は決まって このまじないをする。
 だから、少女がなにを言うかも わかっている。
 常の彼女からは想像できないほど、優しい、優しい声で囁く。

「痛いの、痛いの、飛んでけ」


「もう子どもじゃないんだけどね」

 雲雀の呆れた声に、少女は悪戯っぽく笑ったが、その指は未だ少年の頬を撫でたまま。

グレイ

「爪」

 唐突に言われたグレイの言葉に、少女がケーキを食べる手をとめた。

「なに?」
「伸ばしているのか、爪」
「爪?」

 首を傾げて自分の指先を見つめた少女が、「ああ」と納得した。

「伸びてきてる」
「伸ばしているわけでは ないのか」
「別にそういうつもりは ないわ」

 少女はしばらく自分の爪を見ていたが、気が済んだようでフォ-クを持ち直してケーキを食べ始めた。
 グレイは、コーヒーを飲みながら その様子を眺めている。
 休憩中だというのに煙草を手にしていないのは、目の前の少女に逃げる理由を作らせないためだ。

「……なに?」

 見られる理由がわからず、いぶかしむ少女に「なんでもない」と答えたが、少女は納得しなかったようだ。

「煙草が吸いたいのなら、吸ってくれば いいじゃない」

 最後の一口を食べた後、指先についたクリームをぺろりと舐める。
 無自覚な少女の行動に、グレイの悪戯心がわいてきた。

「煙草はいいんだ。それより、食べ終わったのなら爪を切ってやろう」

 グレイの言葉に咄嗟に立ち上がった少女だったが、それを予期していたグレイの方が早かった。
 ローテーブル越しに少女の腕を掴むと、金の瞳を細めて もう一度言った。

「君の爪を、俺が、切ってやろう」

 少女の眉が盛大に顰められた瞬間だった。

「爪くらい自分で切れるわ」
「君はいつも深爪にしてしまうだろう。おとなしく俺に任せてくれ」
「人に切ってもらう方が怖いわよ」

 とは言っても、捕まってしまっては彼から逃げることは不可能。
 早く解放されるために、不本意だという顔を隠しもせずに少女はグレイの案に承諾した。





 少女はグレイの膝の間に、後ろから抱き込まれるように座っていた。
 わずかに身を引かれ、ぽすんと彼の胸に背中を預けさせられる。
 あわてて体を起こそうとしたが、グレイの腕が腰と肩に回されていて身動きが取れない。

「グレイ!!」

 声を荒げる少女だが、その愛らしい声では あまり効果はなく、グレイを喜ばせるだけだった。
 グレイが笑っていることが、背中越しの振動でわかる。

「~~~っ、意地悪」
「すまなかった。君があんまり可愛い反応をするから」
「うるさいっ。早く爪切って、早く終わらせて」
「では、お姫様。お手をどうぞ」

 渋々差し出された手をとって、グレイはその指に自分の指を滑らせた。
 なめらかな少女の肌を、男の長い指先が撫であげる。
 少女はピクリと体を震わせたが、黙って されるがまま我慢していた。
 少女の様子にグレイが口端をあげ――
 やがて、ぱちり、ぱちり、と爪を切る音が響き始めた。





「終わったぞ」

 グレイの声に身を硬くしていた少女が、ほう、と吐息をもらした。

「……本当に怖かったんだな」
「だから言ったでしょ」

 未だ腕の中にいる少女にふっと笑って。
 綺麗に整えられた少女の爪先に、グレイは接吻けを落とした。

ブラッド

 かちり、とガラス瓶のぶつかる軽い音と。
 かすかに鼻をつく薬品の匂い。
 それから。





 仕事をしていたブラッドが何気なく顔をあげれば、鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌な少女がいた。
 少し前まで、ソファに身を沈めて 難しい顔をして本を読んでいたのに、随分な変わりようだ。
 理由として思い当たるのは、先程 部下が届けに来た小包なのだろう。

「随分と楽しそうじゃないか」

 ブラッドの気だるげな声に、少女は手元から顔もあげずに答えた。

「ええ、楽しいですよ」
「君をそこまで機嫌良くさせる贈り物をしてきた男が 何処の誰か、とても気になるね」
「あら、知って どうなさるおつもりですか」
「もちろん、挨拶に伺うに決まっているだろう。うちのお姫様に言い寄る男は、きちんと品定めしておかなくては いけないからな」
「まぁ、怖い」

 少女はくすくすと笑った。
 そんな会話をしつつも、少女は背を向けたまま。

「では、ボス。一緒にご挨拶に行ってくださいます?」
「いいだろう、何処の誰だい」
「ハートの城ですわ」

 そこで初めて少女が振り返り、紫水晶の瞳をブラッドに向けた。

「ハートの女王様です」

 少女が持ち上げて見せたのは、ちいさな小瓶。
 赤い、紅い、マニキュアだった。

「……申し訳ないが、書類が溜まっているのを思い出したよ。ハートの城へは君ひとりで行くといい」

 拍子抜けしたように、ブラッドが椅子の背もたれに寄りかかる。
 少女は塗ったばかりの左手のマニキュアをかざして目を細めた。
 はたしてその笑みは、ブラッドの反応に対してか、紅いマニキュアへの満足に対してか。

「器用なものだな。そのちいさな爪によくもまあ、そんなに手が加えられるものだ」

 いつの間にか背後に来ていたブラッドが、少女の指先を覗き込み 感嘆の声をあげた。
 ほっそりとした指先の控えめに伸ばされた紅い爪には、黒いレースやらキラキラ光る石やらが飾りつけられている。
 仕上げにトップコートを塗って、もう一度 左手をかざす。


 そのうっとりとした少女の顔に、ブラッドが指を伸ばした。
 するり、と。
 ブラッドの白い手套越しの指が、少女の滑らかな頬をたどる。
 紫水晶の瞳が黙って目の前の男を見つめていると、その輪郭が近くなった。


 長くも短くもない接吻け。
 離れた唇がまだ触れ合う距離で、少女は艶やかに微笑んで言った。

「マニキュアが駄目になってしまうと困りますから、キスだけにしてくださいね」

田島

 マウンドから少し離れた芝生の上に座り込んで、ぼんやりと日光浴を楽しみながら野球部の練習を見ていた。
 普段のおちゃらけたり、優しかったり、おとなしそうだったりする様子とは一転して、皆 真剣な表情で野球をしている。
 野球部には幼馴染や同じクラスの友達がいるから、たまにこうして練習を見にくる。
 たまに、だ。
 だって幼馴染の少年が、自分よりも野球に夢中になっている姿を見るのは悔しい。

「ゆーちろーのバカ。楽しそうに野球したりして」

 はぁ、とため息をついて。体を少し後ろへ倒すように、両手をついた途端。

「あっ――!」
「いっ――!」

 右手に走った衝撃にちょっと涙が出る。
 嘘です。ちょっとではなく、だいぶ泣きたい感じです。
 どうやら踏まれたらしい。

「ご、ごめ……だっ、だい、じょ……」
「っ――――大、丈夫、だから」

 踏まれた人間より、踏んだ人間の方が泣きそうってどうよ、これ。
 でも、仕方ない。相手は三橋だ。
 それにしても、鉄スパじゃなくて よかった。
 練習していた他のメンバーも、異変に気付いたようで集まってきた。

「どうした?」

 逸早く駆けつけた田島に、少女は涙目で「ちょっと踏まれただけ」と右手を振る。
 その隣では三橋が、あわあわと説明にならない説明をしている。
 阿部が怒鳴る声も聞こえてきたが、それどころじゃないので放っておくことにする。栄口あたりが、どうにかしてくれるだろう。

「大丈夫。折れてないし、切れてないから」

 グーパーグーパー、と右手を握ったり開いたりして見せた。
 田島がその手を取って確認する。
 その真剣な表情は野球をしている時と一緒だ、などと ぼんやり考えてしまった。

「ホント、折れてないみたいだ」

 ほっと安堵の息をつく幼馴染の少年に、少女が「ゴメンね」と謝った。

「なんでお前が謝んの?」
「えっと、練習の邪魔しちゃったから……?」
「別に邪魔だなんて思ってねーよ」
「そうだよ、心配しただけだって。なんでもなさそうで良かった」

 田島の言葉に、後ろにいた水谷も安心したように笑った。

「念のために、冷やしておいた方がいいよ」

 栄口が冷湿布を取りに向かう横で、田島が少女の赤くなった指先にふぅーと息を吹きかけた。
 指先だけじゃなくて、顔まで赤くなりそうだ。
 そんな少女の様子に、気付いているのか、いないのか。

「でも、大丈夫だかんな。痕残ったら、オレが責任とるから」

 ―――なんで田島が責任とるんだよ。

 という西浦高校 硬式野球部の心のツッコミも尤もだが。

 ―――とりあえず、早く指を離して欲しいんだけど。

 少女の心臓が限界になる前に、栄口が湿布を持って戻ってくることを祈るばかりだ。