雨
日番谷
さあさあ、と雨の降る音が響いている。
支えている和傘ではねる雨音と その軽い衝撃に、「雨の日は好き」と言った幼馴染の姿を思い出す。
自分の頬は緩んでいるのだろう、と日番谷は思った。この仏頂面を緩めるだけの価値が、かの少女にはあるのだから。
そんな日番谷を呼び止めた声に、さらに喜色は高まった。
「冬獅郎」
紅の飾り糸に、薄色の和傘。
藍の紫陽花の傍らに立つ、幼馴染の少女。
「お帰りなさい、冬獅郎」
雨の中にうっすらと立つ そのいでたちに、ほう、と息をついた。
「ああ、ただいま」
羽織に泥が跳ねないよう器用に捌きながら、足早に少女へと歩み寄る。
「紫陽花なら、朽木の屋敷の近くが見事だって聞いたぞ」
「十番隊からなら、この道でしょう」
つまり少女の目的は、雨の散歩でも紫陽花でもなく、日番谷の出迎えにあるということだ。
「雨の音って不思議」
さあさあ、と雨の降る音は未だ変わらず。
「どこから……聞こえるのかな」
日番谷が天を仰ぐ隣で、少女は瞑目していた。
柔らかな雨はすべてを溶かしてしまいそうで。
絶え間なく降り注ぐ雨音は、しかし、静寂と言う言葉もよく当てはまるような気がする。
「不思議」
その桜色の瞳は閉ざしたままで、少女はひとりごちる。
日番谷は確かに不思議だ、と思った。
静寂の雨音は――
雨音にかき消されそうな少女の呟きを、けして溶かすことなく日番谷の元へと届けるのだから。
「朽木隊長がね」
「ああ」
「見に行ってもいい、って」
「朽木邸の紫陽花を、か?」
こっくりと頷く少女を見つめながら、日番谷は複雑な笑みを浮かべた。
人見知りの強い幼馴染が、他人とのかかわりを増やすことに安堵する反面、自分の手を離れていくことに寂寥の念が湧き上がる。
この自分勝手な独占欲を傍らに立つ少女が知る前に、この雨が溶かしてくれればいいのに。
日番谷の自嘲に気づいたのか否か。
「シロはいつなら時間が取れる?」
日番谷が同行することが前提の問いかけに、「仕方ないな」と嘯いて。
朽木の都合に合わせる、と言えば。
雨の日がいいなぁ、と少女が嬉しそうに笑った。
その笑顔ひとつで、日番谷の内にあった澱が溶けていく。
―――振り回されっぱなしだな。
日番谷の上げた白旗になど気付かない少女は、上機嫌で薄色の和傘をくるり、と回した。
雲雀
居間で本を読んでいたら、テラスに面したガラス戸を薄く開けた妹が、じっと空を見上げていた。
見上げて面白いようなものは もちろんなく、ただ曇天が広がるのみ。
「風に、」
音もたてずに、ガラス戸がさらに開かれる。
「雨の匂いが混じってる」
やがて雨が降り出し、ガラス戸の閉められる音と。
ため息をついて、本が閉じられる音が重なった。
「わざわざ車なんか、出さなくてもいいのに」
助手席で退屈そうに言った少女に、彼女の兄である青年はため息をついてウィンカーをだす。
見慣れた交差点を左に曲がった。
「雨が降ってるだろ」
「これくらいの雨で」
車を叩く音が絶えることはないが、雨粒自体はちいさい。
彼とて、いくら可愛い妹ではあっても雨の日に外出を禁じるほど過保護ではない。
では、何が問題かと言うと。
「ここでいいわよ。兄さん、ありがとう」
赤信号で停まった途端、少女はすべるように車中から降りた。
閉まったドアの向こうで にっこりと笑うと、雨の中を駆け出していく。
「あっ、こら……」
少女の名を呼んで咎めたところで、もう手遅れ。
助手席に置き去りにされた傘を見ながら携帯電話を取り出すと、ある番号を呼び出す。
そうして、今日一番のため息を心の底から吐き出した。
がちゃり、と。
今まさにインターホンを鳴らそうとしていた少女の目の前で、目的のドアが音をたてて開いた。
―――自動ドア。
「……言いたいことはそれだけ?」
「なにも言ってないわよ」
タイミングよく開けられたドアの向こうには、呆れた表情の幼馴染の少年が立っていた。
雲雀の隣をすり抜けて玄関へ入る少女の 雫の滴る長い髪に、雲雀はバスタオルをかぶせた。
「準備いいわね」
「電話があったよ。濡れネズミがくる、ってね」
まっ白い大きなタオルの下から、くすくすと笑う声がする。
笑いごとじゃないだろ、と言って、雲雀の腕が少女の体を持ち上げた。
「こういう時って、お姫様抱っこが基本じゃないの?」
「落とすよ」
危ないなぁ、と笑って少女が雲雀の肩に両手を添える。
雨の匂いが近くなった気がした。
「雨の中を傘も差さずに歩くなんて、理解できないね」
「濡れて歩きたい気分だったのよ。そういう時ってない?」
「ないよ。君じゃあるまいし」
「おもしろいのに」
おもしろいから――それだけの理由で、この少女は雨の中を傘も差さずに散歩するのだ。
さすがに自分が飛ばされかけてからは、台風の時に散歩へ行くことはなくなったが、心配する兄や巻き添えをくう幼馴染のことも少しは考えてほしいものだ。
尤も、雲雀のことで少女が巻き添えをくうこともあるので、お互い様ではあるのだが。
「ねぇ、恭弥。あったかいミルクティーいれて」
「その前にシャワー。それから着替えてきなよ」
ふと、雨の匂いがより近くなった。
雲雀の額に軽いキスを落とした幼馴染が、悪戯が成功したように笑ったので。
さて、どこに仕返しをしようか、と雲雀は嘆息したのだった。
グレイ
青い空にまぶしい太陽、3回続けての昼下がり。
珍しくナイトメアが逃げずに仕事を片付けていたので、次の時間帯はゆっくりと休憩時間がとれる。
そう思って歩いていたグレイの頭上から、鈴を転がすような愛らしい声が聞こえたので、思わず二階の窓を見上げた。
その途端、大量の水しぶきが降ってきたのだった。
「―――っ」
突然の事態にさすがのグレイも動けずにいると、その間も頭上からは水しぶきが降り続けている。
二階の窓から顔を出した少女は、グレイの姿を認めると一瞬 目を丸くし、金の髪を揺らして慌てて一階へと降りてきた。
「グレイ、大丈夫?」
「ああ。少し驚いただけだ」
グレイのいた通路に面した一室のガラス戸が開いて、金の髪の少女の姿が現れると、グレイの思考能力が戻ってくる。
今にも飛び出してきそうな少女へグレイは足早に近付き、室内へ入った。
閉ざされたガラス戸の向こうでは、未だ水の降る音が続いている。
「風邪をひく前に、早く着替えて」
「この程度で風邪をひくほど軟じゃない。それより、君こそ濡れるから離れていなさい」
グレイの言葉など聞いていない様子で、少女は手馴れたようにグレイの両腕のナイフをケースごと外す。
コートとスーツの上着を脱ぎながら、グレイは心配そうに見上げるアクアマリンの瞳に尋ねた。
「ところで、何をしていたんだ?」
窓の外では絶える事無く水が降り続いている。
「雨を降らせようと思ったの」
「……この世界に雨は降らないだろう」
降るのは、世界のルールが犯された時だ。
「知ってる。でも雨の降ってるトコが見たい気分だったの」
「……何かあったのか?」
「別に。何もないわ」
甘えることが苦手な この少女は、すぐに自分の内に溜め込んでしまう。
グレイは未だに それを見抜けずにいる。そのせいで、もどかしい思いを何度となく繰り返してきた。
今回のことも、ただの気まぐれなのか、何かあったのか、判断できない。
少女の頭を撫でようとも思ったが、自分が全身ずぶ濡れなのを思い出してグレイは手を引っ込めた。
「本当に何もないんだな」
念を押せば、困ったように笑って少女がタオルを広げた。
「本当に何もないのよ。ねぇ、それより届かないから少し屈んで」
少女の繊細な手が、グレイの髪の、頬の、首筋の、水滴をなぞっていく。
柔らかいタオル越しに少女の手の感触を感じていると、つい、と少女の右手が首筋を辿った。
締められたままのネクタイへと指先を滑らせ、そのネクタイを緩める。
濡れたネクタイはいつもより緩め難いようだったが、器用な指先はそれを感じさせず、まもなく黒のネクタイはカーペットの上に落とされた。
金の瞳が見下ろす先で、少女はワイシャツのボタンをふたつ外して、その首もとを寛げるとタオルで水を拭う。
「なに?」
「いや」
じっと見下ろす金の瞳に、ちらり、とアクアマリンの瞳で返すと。
少女の吐息が肌をかすめて。
グレイの首筋、そのタトゥーに、柔らかい感触が落とされる。
「―――ごめんなさい」
降り続ける水の音に溶けるような声。
はたしてその言葉は、水をかけたことに対してなのか。
それとも、未だグレイに心の内を明かさないことに対してなのか。
―――どちらでもいいか。
彼女の服も濡れてしまうことには、後で謝罪をするとして。
グレイは深くため息をつくと、少女の腰を引き寄せて腕の中に閉じ込めることにした。