アリスの森

日番谷

 ―――あぁ、まただ。

 夏の陽射しを受けて咲くその花に、黒髪の少女は黒塗りの下駄を止めた。
 前に此処を通ったのは一週間ほど前だっただろうか。
 日々移りゆく姿を愛おしく感じ、桜色の双眸をわずかに細める。花も樹も空も風も、このじっとりとした夏の熱気でさえ、ひとつとして同じものはないのだ。
 少女は燃えるように赤い花をつけるタチアオイを見つめた。


 以前に見かけた時はまだ少女より低かったタチアオイの背丈は、すでに並ぶほどになっている。赤い大輪もいくつか開き、夏らしい出で立ちは少女の好むものだった。
 風の少ない午後の陽射しに、うっすらと汗がにじんだ。


 青い空へと まっすぐに背を伸ばすタチアオイを見上げていて、少女は「この感覚には覚えがある」と頭の片隅で考えていた。
 なんだろう、とぼんやりと思う。既視感というやつだろうか。
 そうして、赤く咲く花と、天に伸びる緑の穂先と、心地良く少女を悩ませる感覚に酔いしれていると――
 ふいに頭上へと影がさした。
 見上げる視界の端に現れた深緋。その色を辿るように ゆっくりと振り返れば、其処には日番谷の姿。

「冬獅郎」
「この炎天下に散歩へ出るなら、傘くらい差せ」

 白い肩先が隣へ並ぶ。遅れて、傘を持つ左の袖から、微かに彼の燻らせている香の匂いがした。
 日番谷の諌める声音に対して 微かな笑みを浮かべただけで、少女の視線はすぐに目の前の花へと戻ってしまう。

「タチアオイか」
「先週はこれくらいだったのに」
「まだ、これからも伸びるだろ」

 ちょうど目の前にあるタチアオイの穂先に、日番谷も視線をとどめる。

「いつから此処にいた?」

 日番谷の問いかけに少女は瞬きをひとつして、するり、と深緋の和傘の下から抜け出した。
 そして、「影がこの辺りにあった頃だよ」とタチアオイの根本に転がる石を指差す。
 夏の陽射しの下に出た少女の頭上にもう一度 傘をかざして、日番谷は呆れたように ため息をついた。
 今、地面を染める影と その位置から鑑みるに――

「1時間も此処にいたのか」

 日番谷のこぼした ため息に、桜色の瞳が翡翠の瞳を見上げた。
 絡み合った視線に少女はことりと首を傾げ、やがて「―――あ、」とちいさく呟いた。

「冬獅郎、背が伸びた?」
「は?」
「前は同じくらいだったよ」
「ああ、そういえば」

 日番谷が少女を見つめる視線が、いつの間にか下がっていた。ほんの僅かではあるが。

「……ずるい」
「俺のせいじゃねーだろ」

 未だ眉を寄せる少女に、仕方ないな、と苦笑して。

「今日も暑いな。冷やし飴でも飲んで帰るか」
「……白玉小豆も」
「わかってる。ほら、行くぞ」

 日番谷から深緋の和傘を受け取り、そのまま彼の左手に自分の右手を重ねると、緩く手を引かれて歩き出した。

雲雀

 夏になると、群れる奴が多くて困る。こんなに暑いんだから、草食動物は草食動物らしく家の中でおとなしくしていればいいのに。
 そう思いながら足元の邪魔な男を蹴り飛ばして通りに出ると、見計らったように携帯が着信を告げた。急かすような黒電話の音に、また勝手に変えたのか、と雲雀の眉間が寄る。
 ディスプレイを見れば、案の定、幼馴染の少女の名前。

「なに?」
「迎えに来て」

 開口一番、幼馴染の少女は名前も名乗らずに、非常に簡潔かつ明瞭に用件を宣った。





「ねぇ、恭弥」

 肩越しに背中の少女が雲雀を呼ぶ。

「重くない?」
「重くないけど、暑苦しい」

 そんな普通の女子みたいなことを気にするとは意外だね、と言えば、聞いてみただけ、と返される。実に彼女らしい無意味な会話に、雲雀がため息をついた。
 そんな雲雀などお構いなしに、彼に背負われたままの少女はゆらゆらと素足を揺らして遊んでいる。
 履いていたサンダルは靴擦れをしたので、少女の鞄に入れられていた。

「暴れると落とすよ」
「それは嫌」

 機嫌良く、くすくすと笑う少女の声がいつもより近い。

「大体、なんでこんな時間に出歩いてるのさ」
「今日はお母さんの使いで、叔父様の家まで行ってたのよ」

 そこで少女が、雲雀の顔を覗き込むように身を乗り出した。

「だから暴れると落とすって言ってるだろ」
「恭弥、今夜は天気がいいわよ」
「雨は降ってないね」
「ね、どれが北極星だと思う?」
「一番明るい星じゃないの」
「ポラリスの明るさは51番目くらいよ。この時期に一番 明るく見えるのは、うしかい座のアークトゥルス、それから、こと座のベガじゃないかしら」

 でも、あんまり違いがわからないわね、と耳元で呟く声に、そうだね、と適当に返す。

「では、仮に あれを北斗七星として」
「仮にしなくても、そうだと思うけど」
「その北斗七星のドゥーベとメラクの間隔の5倍先にあるのが北極星だけど、この遠近感ではどっちがポラリスでどっちがコカブか判断できないわね」
「北に近い方じゃないの」
「では、あれを北極星と仮定し《夏の大三角》を推測すると、あの三つかしら?」
「それでいいよ」
「おざなりね。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイル」

 後ろから伸ばされた少女の指先が、夏空に輝く星達をひとつずつ辿っていく。
 その声を聞きながら、彼女の最近の愛読書は天体観測図鑑と星座早見図鑑だったと思い出した。

「珍しい」

 雲雀の言葉に少女が首を傾げたのが、気配でわかる。

「今夜はずいぶんとよく喋るね」
「うるさかった?」
「別に構わないよ。君の声は耳障りではないからね」

 高すぎない落ち着いた声音は、雲雀の耳によく馴染む。

「私も恭弥の声は好きよ」

 ―――知ってるよ。だから誰よりも近くで聞く権利を与えてるんだ。

 夏の夜空の下。相変わらず機嫌良さげな少女の声が、雲雀の耳を楽しませていた。

グレイ

 5回連続で昼が続いた、ある時間帯。
 いつものようにグレイがナイトメアの部屋を訪れると、ぱしゃり、と水のはねる音に出迎えられた。

「…………何をされているのですか?」

 ベランダに置かれた猫足のバスタブに浸かっている水着姿の光色の髪の少女と、その傍らの椅子に腰掛けて ジョウロで水をかけている上司。
 その光景にグレイは頭を抱えたくなった。

「なんだ、グレイ。ノックぐらいしたらどうだ」
「しました」
「仕事ならしないぞ」
「してください。だいたい前にお持ちした書類だって、まだ終わってないじゃないですか。何を遊んでいるんです」
「仕方ないだろう。可愛い妹のおねだりだ」
「貴女もです。こんな所で、なんて格好をしているんですか」
「だって、中庭ではダメだってナイトメアが言うんだもの」
「当たり前だ。嫁入り前の娘が、誰が通るかもわからないところで水遊びなど、ダメに決まっている。あ、グレイ、お前どさくさに紛れて なにを見ているんだ。見るんじゃない」
「はいはい、見てませんから。とりあえず、あの書類を片付けてください」
「嫌だっ!」
「片付けてください」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐだけ騒いで、結局ナイトメアは書類と向き合う羽目になった。
 開け放したベランダからは、バスタブの縁に両腕をかけた少女が見守り、時折、ぱしゃぱしゃと足を揺らして水を散らす。
 先程までナイトメアが座っていた椅子に腰掛けると、グレイは深く息を吐き出した。懐から煙草を取り出しかけたが、隣にいる少女のことを思い出しその手を止める。
 その様子をちらりと見上げた少女が「吸ってくればいいじゃない」といつものように言ったが、グレイは「折角だから君と話をしていたいのだが、邪魔だったか?」と返した。
 口調が変わったところを見ると、彼は休憩のようだ。

「煙草は貴方にとって精神安定剤なんでしょ」
「君に勝る精神安定剤はない」
「なっ……なに、言ってるのよ」

 途端に赤くなった少女の様子に、グレイは機嫌よく笑った。それが逆に少女の機嫌を損ねるのだと わかっていても、あまりの可愛らしさに止められそうもない。
 案の定、少女は機嫌を損ねて そっぽを向いてしまった。
 謝罪の言葉を述べても 名前を呼んでも振り向かない少女に、困ったように笑う。
 そうして しばらくは、おとなしく少女の後姿を眺めていたのだが。


 大人の分別を見せようとも思ったが、どうにも この少女は自分の悪戯心を刺激して仕方がない。
 グレイはそっと椅子から立ち上がると、無防備に細い肩を晒している少女へと手を伸ばした。
 光色の金糸は結い上げられて、華奢な首筋が露わになっている。水に濡れた うなじへ触れると、少女の肩がぴくりと揺れた。
 ゆっくりと肩甲骨をなぞり、白い背中をゆるゆると撫で上げる。水面が揺れて、ぴちゃり、と水音が耳に響いた。掌に感じる滑らかな肌は、いつもより体温が低い。
 気温が高いとはいえ、あまり長く水の中にいさせては、少女が風邪をひいてしまうかもしれない。

 「あまり無防備な背中を、男の前に晒さない方がいい」

 そう言って。惜しく思いながらも、最後に息を詰めて耐える少女の肩口に接吻けを落とした。