アリスの森

色とりどりの世界、赤の章

『鼓動の情熱』 日番谷

 自分を包む柔らかな温もりと。
 心を落ち着かせる優しい音。
 よく知っているような、初めて感じるような不思議な感覚に。
 日番谷 冬獅郎は、そっと意識を覚醒させた。
 軽い午睡のつもりが思ったよりも深く眠っていたことを知ったのは、目が覚めてからであった。





 目が覚めて最初に見えたのは、紅。
 それが何であるかは、すぐにわかった。
 柔らかな甘い香りが、日番谷の鼻腔をくすぐる。
 いつも傍らにある、桜色の瞳の少女の香だ。
 ならば、この紅は少女の纏う着物の色なのだろう。


 わずかに身じろぎをして右腕を動かすと、少年を抱き込むように寝入る少女の腕へと触れた。
 他人の気配に敏感な少女は、それだけで覚醒したようで、日番谷の頭上から「とう、しろう?」とちいさく呟くのが聞こえた。

「悪い、起こしたな」

 緩められた少女の腕から顔を覗かせると、桜色の瞳がとろん、と日番谷を見つめてくる。
 その様子に笑いを噛み殺して 日番谷が体を起こそうとすると、少女の腕がそれを妨げた。

「おい、」
「だめ」

 少女の指先が日番谷の銀髪をさらりと梳き、己の胸元へ引き寄せようとする。
 さすがの日番谷もそれには驚き 少女の拘束を解こうとしたが、どこに触れてよいのかわからず、結局は少女のされるがままに なるしかなかった。……不本意なことに。

「―――お前なぁ……」

 苦りきった声で唸る日番谷に、少女は桜色の瞳を細めて くすくすと笑う。

「もう少しだけだから」
「もう少し、って……」

 いつから この状態だったのか。
 日番谷が昼寝を始めた時には、少女の姿はなかったはずだ。
 いくら相手がこの少女だとしても、まったく気がつかなかったとは自分が情けない。
 深くため息をついて目を閉じれば、再び感じる温もりと甘い香り、それから――

 ―――こいつの心音だったのか。

 自分が抱きしめることはあっても、こうして少女に抱きしめられるのは滅多にないことだ。
 微睡みの泉にその身を沈めながら、こんな状況でのんきに寝てたりしていいのか、という疑問も浮かんだが。
 耳を打つ優しい音に、何もかもが どうでもよくなってしまっていた。


(『色とりどりの世界、赤の章』 Title by 恋花)

『荒野に咲く花』 イギリス

「こんな所にしゃがみこんで、何してるんだ?」

 頭上から落ちてきた声に顔をあげると、イギリスが不思議そうな顔で其処にいた。
 彼の姿に、ヒースに埋もれる少女は 静かに微笑んだ。

「かくれんぼ」
「かくれんぼ、って……見えてるぞ」

 辺り一面、薄紅で彩られたヒースの丘。
 その中に見慣れた色を見つけて、イギリスはやって来たのだから。
 それに対して少女は、だろうね、と返す。
 幼い頃なら いざ知らず、今の少女では完全に隠れることは無理だろう。

「昔はこうして二人で隠れたわよね」

 口煩い司教や 海を渡って揶揄いにくる隣国の少年、そして、顔を見るのも嫌なイギリスの兄達から。
 専ら隠れていたのはイギリスで、探しにきた少女がそれに付き合っていただけなのだが。
 その時のことを思い出したのか、イギリスが気難しい表情をした。

「今は隠れる必要なんかないだろ」
「隠れる必要はないけど――隠しておきたい、という気持ちはあるもの」

 彼はもう、独りで過ごす時間に膝を抱えるような子どもではないから。
 この地に住まう妖精たちと 私だけが支えだった子どもではない。

 ずっと私だけのイギリスでいてくれれば よかったのに――。

 少女が言わずにいた想いは、しかし、イギリスには すぐに察しがついた。
 時折、この少女はそういう態度を垣間見せる。
 口より雄弁に語る紫水晶の瞳に、彼は困ったように笑みを浮かべた。

「アフタヌーンティーが終わるまでなら隠されてやるよ」

 薄紅のヒースの中、イギリスにその存在を知らせたホワイトティーのような柔らかな金の髪。
 その金の髪を優しく撫でた後、イギリスは少女の左肘に手を添えて 軽く引くことで、少女へ立ち上がるように促した。

「その代わり、こんな寒いところじゃなくて、もっと暖かいところに隠してくれ」
「いいわよ。暖炉のある部屋に隠してあげる。それから、今朝 焼いたスコーンも出してあげるわ」
「紅茶は?」
「それはアーサーの役目よ。美味しい紅茶を淹れてね」

 嬉しそうに笑う少女に手を引かれながら、たった これだけのことで少女が自分の側に留まるのなら安いものだな、とイギリスは思っていた。


(『色とりどりの世界、赤の章』 Title by 恋花)

『甘い果実にくちづけを』 十年後雲雀

 襖の前に立つ静かな気配に、雲雀 恭弥は読んでいた本から顔を上げた。
 確か彼女は、エディンバラにいると言っていた。日本に帰ってきているとは初耳だった。
 間もなく開けられた襖の向こうからは、予想どおり無表情な幼馴染の姿。
 そして、開口一番。

「あら? 起きてる」

 と、つまらなそうに呟いた。





「熱があるんだって?」

 敷居を跨いで部屋に入ってきた幼馴染は、勝手知ったる様子で座布団を出してきて、雲雀のいる布団近くに腰を下ろす。

「もう下がったよ。なんで知ってるんだい?」
「兄さんが言ってたわ。うちの病院 使ったでしょ?」

 あ、これイギリス土産。――鞄から出したチョコレートを雲雀に差し出す。

「……チョコはいらないよ」
「そう? 向こうで甘いものが食べたいと思って買ったんだけど、食べる時間がなかったのよね」

 チョコレートの上に乗せられている記録メディアだけ摘み上げて、雲雀は呆れた表情を作った。

「病人に持ってくるものじゃないだろ」
「あら、ちゃんと水菓子も持ってきてるわよ。マンゴーと マンゴスチンと チェリモヤ、どれにする?」

 どういうセレクトだ。
 雲雀の表情から言いたいことを察した幼馴染は、「世界三大美果よ」と答えた。
 わかってやっているのか、素でやっているのか――相変わらず不可思議な女だ。

「そんなこと知ってるよ。中学の時にも同じことしただろ」

 よく覚えてるわね、と口元に薄く笑みをはいて、持参したバスケットから赤い果実と黄褐色の果実を取り出した。
 どちらも熟していて食べ頃だということが窺える。

「林檎と梨、どっちがいい?」
「―――林檎」
「梨ね、わかった」

 こうなることは わかっていたので、今更 目くじらを立てる気はない。
 彼女は梨が好きなのだ。


 少しの間、幼馴染の手元から聞こえる皮を剥く音だけが、広い和室を支配していた。
 彼女の白い手の中でくるくると器用に回る果実を見つめ、あのバスケットには桃の缶詰も入っているのだろう、と雲雀は確信めいた思いを抱く。
 この幼馴染は、雲雀が熱を出すと いつもこうだ。

「―――はい、恭弥」

 ぺティナイフをケースに仕舞うと、当然のように幼馴染の指先が 等分に切り分けられた果実を摘み上げる。
 自分で食べると言っても聞きはしないから、雲雀は諦めて口を開けた。
 しゃり、と瑞々しい音がして、果実の甘みが口の中に広がる。
 ねぇ恭弥、美味しい?――艶やかに浮かべられた彼女の笑みに。

「自分で確かめてみれば?」

 そう言って引き寄せた彼女の唇は、もっと甘いのだろう。





 視界の端に、
 畳に転がされたままの赤い果実が映った。


(『色とりどりの世界、赤の章』 Title by 恋花)