アリスの森

世界は目が回らない程度に優しく廻っている

 誓って言おう。決して疚しい気持ちなどなかった。
 本当だ。
 ただ、その手があまりにも無防備に投げ出されていたから……。





「うん、いい出来だ」
 オーブンから出した天板をテーブルの上に置いて、その焼き具合と色合いに満足する。
 見渡せばテーブルの上にはフランス渾身の作である、色とりどりのマカロン。
「フィリングはできてるから、後は冷ますだけだな」
 つけていたエプロンを外して椅子の背に掛けると、気温と湿度を確認してフランスはキッチンを出た。
 マカロンは非常に繊細な焼き菓子だ。そうでなくとも、あのお姫様が口にするものだから妥協は許されない。食べさせるからには、世界一美味い菓子を作らなくては。
 さて、そのお姫様は何処に行ったのだろうか。





「おーい、イギリスー」
 扉付近の書物の山を避けて書斎の奥に声をかければ、書棚の影からイギリスが顔を覗かせた。
「何の用だ、忙しいんだよ」
 不機嫌そうに言ってのけたイギリスの腕には、年代物の書物ばかり。
 天気の不安定なこの国には珍しく朝から快晴。雨どころか曇る気配もない、スカイブルーの空が広がっている。
 そんな天気の中イギリスは何をしているかというと、書斎に収められた膨大な量の書物の虫干しである。イギリスの家にある書物は、彼が個人的に集めた本以外にも歴史的価値のあるものが多いから、たまに こんな風に手入れをしているのだ。
は、そっちにいるか?」
? こっちにはいないぞ。庭か居間にいるんじゃないか?」
 イギリスは抱えていた本を机に置くと、丁寧に中を確認しながらフランスの問いかけに答える。

 相変わらず、変な奴らだ。――フランスは思った。
 このふたりは昔っから互いへの依存度が高いくせに、周囲が困惑するほどべったりかと思えば、無関心に見えるほど放任主義になる時もある。
 しかし、それくらいがいいのだろう。気の遠くなるような長い時間を一緒に過ごすには。

「庭か居間、ね。天気が良いから庭かな」
 書物の並べられた机を避けて、窓際の机にアイスティーの入ったグラスをふたつ置くと、イギリスが無言で手を差し出す。
 なにその手、とは言わない。フランスは仕方ないな、と溜息をついて片方のグラスを手渡してやった。
「お前って、どこまでも人を使うのな」
「『立っているものは親でも使え』って日本んちの言葉があるだろ」
「急用じゃないし、お前 座ってもいねーじゃん」
「うるさい。そんなことより早くそれ、に持っていってやれよ」
「お前に言われるまでもないさ」
 人使いの荒いイギリスのグラスを元の机に戻してから、フランスは書物で溢れかえる書斎を後にした。





 庭に出る前に居間を覗いてみたが、案の定の姿はなかった。
 薔薇園に面したテラス、庭を少し奥にいったところにあるパーゴラにもその姿はない。
「おーい、ー」
 返事がないのは、この辺りにはいないからなのか。
 イギリスの庭は無駄に広くて、かくれ鬼をするにはもってこいだが、探し物をするには少々厄介だ。
「これで屋敷の中にいたって展開だと、お兄さん無駄足になっちゃうんだけど――っと」
 足元に飛び出してきた子猫に、フランスは驚いて足を止める。
 子猫はフランスを見上げると、にゃあ、と一声鳴いて黒い尻尾をゆらりと揺らした。
「ひょっとして、お姫様のところに案内してくれるのか?」
 子猫はフランスの言葉がわかるかのように、にゃあともう一度 鳴いた。
 尻尾をピンと立てて気取ったように歩く姿に、フランスは飼い主の少女を思い出して一人忍び笑う。動物は飼い主に似るというが、なるほど、そのとおりかもしれない。
 整えられた庭園を歩いていくと、ややしてこの庭でも特に高くそびえる大樹へとたどり着いた。
 フランスのおとないに、木陰を飛び回っていた小さな光が一瞬にして消えてしまう。
「別に、そんなに慌てて消えなくたっていいのに」
 昨日キッチンの片隅に置いたクッキーとミルクは、お気に召さなかったかな。イギリスの家に古くからいる人ならざる者に笑うと、大樹の木陰に膝をついた。
 柔らかな芝生に横たわる無防備な少女にフランスは眦を緩める。此処は戦時下でもなければ、警戒するような場所でもない。だからこその、穏やかな寝顔なのだろう。
 緑の上に投げ出されている白い手を躊躇いもなく すくい取ると、その甲に触れるだけの接吻けをした。眠り姫は起きる様子もない。
「こーんなところで寝てると、狼に食べられ……」

 ひゅっ、と風を切る鋭い音。
 ざくっ、という鈍い音。
 そして、目の前の幹に刺さっているナイフ。

 ―――忘れていた。この辺りは書斎の窓からよく見えるのだということを。

「なーにしてんだ、ヒゲ野郎」
 予想どおりの声にフランスは自分の迂闊さを後悔した。
「そのヒゲ全部、引っこ抜かれたいようだな」
 ここから窓までは距離もあるはずだ。なのに、海賊紳士の禍々しいオーラはフランスの背後にまで及んでいる気がする。
「お兄さん、別に何もしてないだろっ」
「お前は其処に居るだけで いかがわしい」
「ひどっ」
 可愛いお姫様に飲み物を献上しに来ただけなのに。
「つーか、こんなもん投げて危ないだろ。に当たったらどうすんだよ」
「間違ってお前に刺さることはあっても、に当てることはないから安心しろ」
「俺に当てる気満々だっただろ。だいたい、が此処にいるの知ってたんなら教えろよな」
 庭か居間だなんて、思わせぶりな発言しやがって。
 フランスが二階――書斎の窓を見上げて抗議すれば、「俺だって、今さっき気付いたんだよ」とイギリスはしれっとした顔で答えた。
 イギリスとフランスの喧嘩には慣れているのか、この騒ぎの中、眠り姫は眠ったままだ。
「いつまで握ってんだよ。さっさと、その手を離せヒゲ」
「あ、そーだ。イギリスーお前、のネイルボックス持ってこい」
「はぁ?」
「ネイルポリッシュとか入れてるやつあるだろ。早くしろよ」
 早く早くと急きたてるフランスに不平を漏らしつつ、イギリスの姿が窓から離れた。





「何やってるんだい?」
 白い指先のラウンドシェイプに整えられた爪に、鮮やかな青のネイルポリッシュを塗っているところで背後から掛けられた声。声を掛けられる前から(主にアメリカの)話し声が聞こえていたので、やってくることはわかっていた。
 振り返れば、予想どおりの声の主。アメリカと少しばかり疲れた様子の日本が其処にいた。
「まったく、何回ベルを鳴らしたって出てこないからどうしたのかと思えば、いい年したおっさん達がこんな所で何をしてるんだい?」
「イギリスさん、勝手にお邪魔してすみません」
 対照的なふたりの様子に、フランスもイギリスも苦笑する。
「それは構わない。こちらこそ折角来てくれたのに、出迎えもしないで すまなかった」
 座ったまま謝罪するイギリスの手には、白と青のコントラストが際立つ少女の手。
 アメリカと日本の視線がその手から腕へ、そしてフランスの成すがまま眠っているへと移される。
「……ええと、さんはよくお休みのようですね」
 日本らしい八つ橋に包んだ物言いに、青のネイルを塗り終わったフランスが瓶の蓋を閉めながら笑った。
「あいにく我らが姫君は、手を触ったぐらいじゃお目覚めにはならないんでね」
 さすがに二の腕や太腿を触った時には強烈なアッパーが飛んでくるが、それだってフランス限定で、だ。
「ねぇ、フランス。それってネイルアートってやつだろ。キラキラした石をつけたり、シール貼ったりするんだよね」
「おいおい、お兄さんを甘くみるなよ。シールなんてお手軽なもので済ませたりしないぞ」
 興味津々といった態のアメリカに、フランスは人差し指を振ってみせる。
「日本、手貸して」
「はぁ。何をすれば……」
「手のひら上に向けて」
「こうですか?」
「そうそう」
 そう言ってネイルポリッシュを塗ったばかりのの手を乗せて、反対の手をイギリスから受け取った。
 一方、急に少女の手を乗せられた日本は、明らかに困惑した様子である。公式の場で握手をする以外にの手へ触れる機会はあまりない。冷やりとした滑らかな手は、まるで人形のようだ。
「さて、薔薇だと捻りがないよなぁ。蝶とかどうだ? で、この辺にラメでラインを入れてストーンとパールで―――」
「蝶にするなら全部に入れるより、ひとつだけにして他の指はひらひらと飛んでる感じで余韻を残した方がいいだろ」
「フランス、フランス、俺もやってみたいんだぞ。反対の手は俺が描いてもいいかい?」
「アメリカさん、ダメですよ。大人しく座っていてください」
 むくれるアメリカと、それを宥める日本。
 余程の力作を作るつもりなのだろう、フランスとイギリスは経済政策を話し合う会議でも見なかったような熱心さで、のネイルアートに取り掛かっている。

 ―――それにしても、この騒ぎでも起きないとは……きっと慣れているんでしょうねぇ。





「で、これは何事なの?」


 ようやく目覚めた眠り姫は、最初は何故 自分がソファの上で寝ているのか不思議だったが、ぼんやりとした頭でイギリスかフランスが運んでくれたのだろうと納得した。
 足元でにゃあ、と子猫が鳴く。その子猫を抱き上げて時間を確認しようとした時に、ふと視界に入った色。
 鮮やかな青。
 はアメジストの瞳をパチパチと瞬いて、己の指先を目の前にかざして首を傾げた。


「出来心だったんです。すみませんでした」
 正座をしているイギリスとフランスを、ソファに足を組んで座ったままが呆れたように見下ろす。
 が午睡から目覚めると、自分の指先にはそれは見事なネイルアートが施されていた。
 誰が――などという詮索は愚問だ。少女の部屋からネイルボックスを持ち出せるのはイギリスしか居らず、こんな見事な手腕を披露するのはフランスかイタリアくらいである。


「フランシス! 指先ばっかり こんなに煌びやかにして」
「面目ない」
 これと同じものを描けなんて、私には到底ムリよ。
「足、つま先、後でこっちも同じように塗って頂戴ね!」
「J'obéis à l'ordre de la princesse」


「アーサー! 明後日のパーティーに着ていくドレスが赤だって知ってるでしょ」
「すまない」
 貴方に相応しくあろうとする私の努力、少しはわかってるのかしら。
「ドレス。この指に似合う新しいものを選んで頂戴ね!」
「I obey an order of a princess」





「イギリスさーん、このシリーズ、三冊目が抜けてるみたいです――あれ? 何かありましたか?」
 ずっと書斎の片付けをしていたカナダは、状況を読めずに首を傾げる。
 がソファに座っているのはいつものことだが、何故か正座しているイギリスとフランス。いつ来たのか、向かいのソファに座ってクッキーを頬張っているアメリカと、困った表情の日本。
 不思議そうなカナダに、は優しく微笑みかけた。
「なんでもないのよ、マシュー。書斎の片付け、ひとりで大変だったでしょう。ありがとう。昼食の後はアルフレッドも手伝ってくれるそうよ」
「えーっ、俺そんなこと言ってないぞ」
 ひらひらっと青い指先を振ってみせると、お姫様はにっこりと笑みを浮かべた。
「ふたりを止めなかったでしょ。貴方も同罪よ」
「それを言うなら、日本だって……」
「口答えしないの。フレッド、イイ子のお返事は?」
「……Yes,my dear」
「よく出来ました」





 遅い昼食のために居間を出る皆の後ろを見送りながら、日本が申し訳ないという顔で少女に声をかけてきた。
「別に菊のせいじゃないわ。気にしないで」
「でも、おふたりを止めなかったのは自分も同じですし」
 真面目な日本の様子に、はくすくすと声をたてて笑う。
「悪乗りしたあのふたりを止めるなんて、誰にもできないわよ」
 足元に擦り寄ってきた子猫を抱き上げて、は青い指先で子猫の顎をくすぐった。
「私だってこれくらいのことで本当に怒ってるわけじゃないもの。彼らだって、あれは反省している振りなのよ」
「そう、なんですか」
「そうなのよ。あれは単に、」


「私のお姫様ごっこに付き合っているだけなのよ」


 かわいい人たちでしょう?――そう言って彼らのお姫様は、それはそれは楽しそうに微笑んでみせた。

(『散文御題』 Title by 黎明アリア)