其処はちいさな森だった。
少なくとも立ち入る前の印象だけで言えば、然程おおきな森ではなかったように思う。
寄り添うように隣を歩いていたユニコーンはいつの間にかいなくなっていたし、薄暗い森は何処まで歩いても景色を変えることはなかった。
どれほど森の中を彷徨っていたのだろう。未知なる領域とひとりでいる不安に耐え切れなくなった頃、それまでの薄暗い森が幻であったかの如く光に満ちて、不意に視界が開けた。
あまりの眩さに目をきつく閉ざし、それからゆっくりと瞳を開く。そして、萌黄色の瞳を驚きに丸めたのだった。
「おや――これは珍しいお客人だ」
彼らの中で一番年嵩の男が、心底珍しそうにそう言った。
「斯様な場所で迷子ですかな? 幼き『国』よ」
少年のことを物珍しげに見ているのは、年嵩の男だけではなかった。
彼らは一様に金の髪と白い肌をしていて、今までに出会った者の中でもとりわけ美しい容姿をしていた。そして、澄んだ空のような青の瞳に好奇の色を宿している。
一目で彼らが人外の者たちであることには察しがついた。そして、自分があまり良くない場所へ踏み込んでしまったことも。
じり、と無意識に足が半歩下がる。
「可愛らしい坊や、もうお帰りになるの?」
背後から耳元に囁かれた女の声に、思わずびくりと体を竦ませる。いつの間に背後に回られたのだろう。
幼子の反応に気を良くしたのか、女はくすくすと笑った。
「かわいそうに。あまり怖がらせるものではないよ」
「あら、そんなつもりはないわ」
年嵩の男が軽い様子で女を諌めると、今度は別の女性が一歩前へ出た。
「さて、我らの『踊り場』に足を踏み入れた可愛い坊やを一体どうしましょうか?」
「そう易々と見逃すわけにはいかないだろう。その『身体』と『魂』と『名』を掛けて、我らの誓約に従ってもらわねば!」
気の荒そうな青年が声を張り上げると、周囲の空気がピリピリと振動したような気がした。
強い言葉には力が宿る。
このまま尻込みしていては、彼らに引き摺り込まれてしまうかもしれない。震える足に力を込めて、きっ、と彼らを睨みつけた。
「まぁ。そんな怖い顔をしては、せっかくの可愛い顔が台無しよ」
「あら、気丈に振舞う姿も可愛らしくてよ」
自分よりもずっと長く生きてきたであろう彼らは、ちいさな獣が毛を逆立てる様子が楽しいらしく、悪意なく くすくすと笑い声をたてる。
それを咎めたのは、先程の年嵩の男だった。
「やめなさい。彼は『人』とは違うのだから、そういうわけにはいかないよ」
高圧的ではない柔らかな物腰は、しかし、無視できない強さを持っている。
女たちは窺うように年嵩の男を見やり、こちらへと一歩を進めた。
「でも……彼が自分の意思で選ぶのならよいでしょう?」
「ねぇ、坊や。独りは寂しいでしょう? 私達と一緒に来れば、もう寂しいことなんてないわよ」
美しい女たちは代わる代わる、慈愛に満ちた表情と甘い囁きを落とす。彼らと行けば、もう寂しい思いをしなくてすむ――その言葉はとても魅力的だった。
だが、踏み出そうとした一歩をどうにか堪える。
自分は『国』なのだ。
ローブの下で握りしめている両の手にさらに力を入れて、顔を上げた。
その時――
「―――独りは寂しいの?」
凛 とした声がした。
今までに聞こえた誰よりも若い――いや、幼いと言っても差し支えのない声に、『イングランド』は瞬きも忘れてその少女を見つめた。
少女も同じように紫水晶のような双玉で、ひたと自分を見つめていた。
「―――独りは寂しいの?」
一度は決意を固めたのだろう幼い少年にそう問えば、萌黄色の双眸に不安の色が揺らぐ。
あぁ、やっぱり。――不安に揺れる萌黄色に、ちいさく笑みを浮かべて彼を見つめる。
思えば彼は此処に足を踏み入れた時から、不安を押し留めて気丈に振舞っていた。それらは全て彼が『国』であるが故の矜持であろうか。
仲間達の輪を抜け出して、幼い少年の前に膝をついた。立っている時は見下ろしていた目線が、膝をつくと低くなる。
一族の中で一番幼い少女であったが、目の前の少年はさらに幼い。少なくとも外見だけなら、自分の方が二つ三つ上に見えた。
「独りは 嫌い?」
殊更ゆっくりと問うてみれば、幼い少年は一度俯いて きゅっと口元を引き結んだ。
我らのような人外の者に対して、迂闊な返答は避けるべきだと知っているのだろう。俯いた表情から熟慮の欠片を垣間見る。
どう答えるのか。
―――私が気に入る返答を出してくれるかしら。
ようやく幼い少年は顔を上げた。
「独りでいることにはもう慣れた。でも……誰かが一緒にいてくれるのならその方がいい。独りでいるより、ずっといい。だけど、俺はこの『国』だ。お前達と一緒には行けない」
思っていたよりも、ずいぶん素直な答えが返された。
その瞳に真摯な色を湛えて、しっかりと見返してくる。
―――あぁ、やっぱり。
初めて見た時から思っていた。
なんて綺麗な瞳なのだろう、と。
いろいろな感情を映す、春を思わせる緑の瞳。
「そう」
少女はふわり、と笑った。
「私の名前は『』よ」
そう告げれば、仲間達がざわめき始めた。彼に『名』を明かしたことを咎める声を、聞こえない振りでやり過ごす。
「?」
「そうよ」
「俺は『イングランド』だ」
警戒心もなく素直に人外の者の『名』を呼び、己の『名』を明かす。
その重大さを、彼はまだ知らないのだろう。
やはり、はちいさく笑みを浮かべた。
「そう、イングランド。いらっしゃい、森の外へ連れて行ってあげる」
は立ち上がって、未だローブの下で握りしめたままのイングランドの手を緩く引いた。
「」
聞き慣れた穏やかな声がを呼ぶ。
穏やかだが無視できない響きを持つその声に、は歩みを止めて父を振り返った。
「お前は彼に、己の『名』を与えた。そのことに後悔はないね?」
「何もなさぬうちにその結果を得ようとするのが、無意味なことだとは知っていますが」
「―――そうか。お前の好きにしなさい」
そう言って、少し寂しそうに瞑目した。
優しい父に、仲間に、背を向ける。
イングランドが心配そうに見上げているのに気付いて、安心させるように笑ってみせた。
ふと、父のように笑えていただろうか、と思った。
「幼き『国』と、我らの愛し子に幸あらんことを」
慈愛に満ちた祈りは、風と共にちいさな森を吹き抜けていった。
(『散文御題』 Title by 黎明アリア)