白磁のティーポットに白以外の色が映る。
大きな窓ガラス越しに差し込む斜陽に日本が顔を上げると、ロンドンの空が橙色に染まっていた。
改めてテーブルの上を見ると、ティーポットだけでなく、テーブルクロスもミルクピッチャーもスコーンも橙色の光が映りこんでいる。
穏やかで楽しい時間というものは斯くも早く流れゆくものなのか、日本は微かに笑みを浮かべた。
「あら、もうこんな時間になってしまったのね。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうわ」
日本の様子を眺めていた少女が、同じようにガラス越しの空を見上げた。
少女の白い指先が絡むティーカップも橙色に染まっている。
「自分も同じことを思っていたところです」
日本の言葉には柔らかな笑みを見せて、ティーカップに口をつける。
初めて会った時から変わらぬの穏やかな物腰は日本の好むものだったし、変に気取らないところは一緒にいて気が楽でもあった。
だからと言って、少女に特別な感情を持っているわけではない。友人として良い関係を築いていると思う。
「イギリスさんのお宅の冬は一日が短いと聞いていましたが、もう陽が沈んでしまうのですね」
「菊のところは違うの?」
「立春も過ぎたので少し日が伸びましたが、うちもあまり変わりませんね。あと10分か20分もすれば、陽が沈みます」
『立春』という言葉には一瞬首を傾げたが、日本が説明をする前に「ああ、『節分』の翌日ね」と嬉々として告げた。何年か前に日本の家でイギリスやアメリカと一緒に、豆まきをした事を思い出しているのかもしれない。
この少女は日本の季節や行事に関心が深いようで、声をかける度に喜んで遊びに来る。
こんなに喜んでもらえれば誘った甲斐がある、と日本は常々思っていた。
「フランシスのところはもっと遅いわよね」
ティーカップをソーサーに戻して、は対面に座する青年へと視線を向ける。
話を振られたフランスは読んでいた本から顔を上げると、時計を見て「そうだな」と呟いた。
「今の時期なら日没は18時ってとこだな」
世界会議ではイギリスやアメリカ相手に騒がしいフランスも、よく付き合ってみれば、普段はわりと落ち着いていることがわかる。
「でも、なんだか変ね」
部屋の照明をつけるために立ち上ったは、表情を綻ばせて言葉を続ける。
「同じ地球上のことなのに、国や地域によって日出も日没も天候も違うなんて」
「確かに。此処とうちでは、冬の日照時間が一時間も違いますからね」
「ね、変でしょう。それに陽が沈むのだって、菊の家とはあまり変わらないのに、お隣のフランシスの家の方が時間が遅いって変だわ」
変だ変だと言いながら、なにやら楽しそうな少女の様子に、日本も自然と笑みがこぼれた。
「さて、と」
徐にフランスが立ち上がった。
元々日本はフランスのところに仕事で来ていたのを、彼に誘われてロンドンまでやってきたのだ。彼が退席するのならそれに倣うのが道理だろう、と腰を上げようとすると。
「そろそろ夕飯の支度でもしますか」
思いがけないフランスの一言に、日本は控えめに声をかける。
「あの、フランスさん」
「なんだ、日本?」
「お帰りになるのでは……?」
「えっ、帰るの?」
日本の問い掛けに反応したのはの方だった。
アメジストの瞳に驚きを映して、もう一度「菊、帰るの?」と重ねた。
「えっと、時間も遅いですし」
「あれ? 俺、泊まるって言わなかったっけ?」
「一言も仰ってません」
そーだっけ、と呟いたフランスは人差し指で頬をかいて、誤魔化すように明後日の方を見る。日本がじぃっと睨んでいると、が「菊」と控えめに名を呼んだ。
「どうしても帰らなくてはいけない? 久し振りだから、もっと菊の話を聞かせてほしいのに」
テーブルを回って日本の傍らまできたが、胸元で手を組んで日本を見つめる。この少女がお願いモードに入ったなら、いくら日本でも無碍にすることはできない。
フランスもそれがわかっているようで、苦笑めいた表情で見守っている。
「急に泊まると言ってもご迷惑になりますし」
「うちは一向に構わないわ。あとは菊の都合だけよ。わがまま言ってるって承知してるけど、ねぇ、どうしてもダメ?」
わずかに瞳を潤ませて懇願するように見つめられては、もう白旗を挙げるしかない。
「……わかりました。今夜はご厄介になります」
「ありがとう」
先程までの表情を一変させて花のように微笑むと、は部屋の用意をしに足取りも軽く出ていってしまった。
日本は冷めてしまった紅茶を飲み干して、あんなに喜ばれては仕方ありませんねぇ、とこぼす。
「元はと言えば、フランスさんが言わなかったのがいけないんですし」
「悪かったって。でも黙ってた訳じゃなくて、言ったつもりだったんだよ」
金の髪を後ろに纏めながらフランスが笑う。
「可愛いお姫様に『最近日本に会ってないな』って言われれば、愛の国フランス兄さんとしては会わせてやりたくなるでしょ」
「別にさんとお会いすることは構わないんですよ。ただ、泊まるなら事前に一言あって然るべきだと私は言っているのです」
「それは悪かったって」
本当にそう思っているのか疑わしい軽さで謝るフランスに日本は溜息をついた。
フランスの料理が食卓に並ぶ頃、イギリスも仕事から帰ってきた。
手土産のワインに気付くと、フランスは「さっすが坊っちゃん」とその功績を称えたが、いつぞやの酒宴の騒動を思い出した日本は眉を潜めた。
その様子にが、大丈夫よ、と囁く。
「毎回あんな悪酔いする訳じゃないから」
隣へ視線を移した日本に にこりと微笑んでから、少女はイギリスの上着を受け取り、当然のように彼のタイを緩めた。
その仕草が、いつもの天真爛漫な少女から掛け離れているような気がして。
「どうかしたか、日本?」
イギリスに声をかけられて「なんでもないですよ」と緩く頭を振ると、その傍らに立つ少女が困ったような表情で笑うのが目に入った。
何がどうしたと言うわけではない。
ただ、なんとなく感じた居心地の悪さを隠すように日本が、「そういえば、そろそろ梅の花が見頃ですよ」と少女の喜びそうな事を口にすれば。
予想どおりは、「是非、見に行きたいわね」と紫の瞳を細めた。
料理が冷める、というフランスの呼び掛けに三者三様の返事をしながら食卓へと着く。
―――ああ、あれは娘が彼氏といるところを見てしまった、父親の心境に似ているかもしれませんねぇ。
当然のことながら、イギリスやフランスは気付いていない。
気付かれて困るものでもないけれど、説明するには いささか気恥ずかしい……と視線を上げると、対面に座すると目が合った。
彼の少女が困ったように笑う様子を見て、「彼女には ばれてますね」と苦笑し、とりあえず、なんとも表現し難いこの感情をワインと一緒に飲み込んでみることにした。
(『御題ノ欠片』 Title by 黎明アリア)