今日も我が愛しのイングランドは鈍色の空に覆われている。
だからといって、如何ということはない。
この国はもうずっと前から、こんな空がデフォルトなのだ。
以前、日本が遊びに来た時に「天気が悪いですね」と言ったことがある。
その言葉にが不思議そうにしていると、空気を読んだ彼が「他人様の家のことを悪く言ってしまいましたね」と申し訳なさそうに謝罪をした。この国が年中 曇り空だと知っていたのだろう。
その時のはといえば、別段悪く言われたつもりはなかった。ただ、ああ、他国はそう感じるんだな、と改めて曇り空について再認識した程度だったのだ。
とて、一時アメリカで生活していたこともあったし、フランスやカナダに滞在することも多いので、他国ではスカイブルーの空が当然だということも知っている。
―――そうか、曇り空は「天気が悪い」のか。
日本らしい表現だ、とひとり納得していたのだった。
そんな古い記憶をつらつらと思い出して街を歩いていると、人混みの中に見知った人物の後ろ姿を見つけた。
少し癖のある柔らかそうな金の髪に、が相好を崩す。
急に駆け出した少女に隣を歩いていた青年が驚いて声をかけたが、の足が止まることはなかった。
さて、これからどうしようか。――カナダは腕時計に視線を落とした。
急な仕事でロンドンまで来ていたが、それも片付いてしまった。
明後日には、またロンドンで世界会議がある。
このままホテルを取って滞在していこうか、それとも一度帰国しようか。折角ロンドンまで来たのだからイギリスとに挨拶もしていきたいが、二人の都合はどうだろうか。
そんなことを考えながら、不器用に人混みを歩いていく。すると――、
「マシュー」
やわらかい女性の声に名を呼ばれた。
その聞き覚えのある声に驚いて後ろを振り向くと、わずかに頬を染めた少女が人混みの間から駆け寄ってきた。
「さん」
それはイギリスの傍らでいつも優しく微笑んでいる、薔薇のように愛らしい少女。
昔からカナダのことをとても可愛がってくれるは、周囲に忘れられがちなカナダを決して見失ったりはしなかった。
現に今だって、この人混みの中、後ろ姿だけでカナダを見つけてくれた。
「マシュー、久し振りね。元気にしてた?」
カナダの前で足を止めるとはひとつ深呼吸をして、それからカナダの頬に手を伸ばした。
それに気付いたカナダが腰を屈めると、はその頬に小さくキスをした。同じようにカナダが少女の頬にキスを返すと、はよく出来ましたとばかりにカナダの頭を撫でる。
幼い頃から変わらない一連のその動作に、アメリカなら「子ども扱いしないでくれ」とむくれるのだろうが、カナダは気にした様子もなく はにかむように笑みを浮かべてみせた。
そんなふたりの近くで、よく磨かれた革靴が足を止める。
「お兄さんをほったらかして何処に行くかと思えば」
その声に顔を上げると、そこにはフランスが大きな紙袋を片手に苦笑気味に立っている。
「フランスさん」
フランスの登場に ぱちくりと目を瞬く。
一方のフランスもカナダが此処にいることが少し意外だったようで、「久し振りだな、カナダ。会議は明後日だぞ」などと揶揄い交じりの挨拶をしてきた。
今日は仕事で来てたんですよ、と返すカナダに、フランスも「そうか」と笑ってカナダの頭をまぜっかえすように撫でる。この人も大概、自分のことを子ども扱いしていると思う。
「お二人ともお元気でしたか?」
「ええ、私もアーサーも元気よ。ついでにフランシスも。マシューも元気だったかしら?」
「はい、元気ですよ」
「そう、それはなによりだわ」
が優しく笑う。そんな彼女を見て、カナダもにこにこと笑った。
「で、仕事は終わったのか?」
良く言えばマイペース、悪く言えばルーズなところのあるカナダを気にかけて、フランスが尋ねた。
「はい。これからどうしようかと考えてたところなんです」
「他にも用事があるの?」
「いえ、会議が明後日でしょう? このままロンドンに残ろうか、一度カナダに帰ろうか、考えていたんです」
「お前のんびりしてるからなぁ。このまま残ってた方が遅刻しないですむぞ」
「あ、やっぱり そう思います? じゃあ、どこかホテルを……」
取らなくちゃいけないな、と言い終わる前に、がカナダのネクタイをぐいっと引っ張った。
「ロンドンに滞在するのに、ホテルがなんですって?」
にこりと笑う目の前の少女。しかし、そのアメジストの瞳は笑っていない。
カナダは困ったように傍らのフランスに視線をやるが、彼は荷物を持っていない方の手を上げて首を左右に振った。どうやら助けてはくれないようだ。
鈍いカナダとて、姉代わりともいえる彼の少女が機嫌を損ねた理由はわかっている。
「……えっと……ロンドンに残ろうと思うので、しばらくイギリスさんの家に泊めてください……」
観念してそう言ったカナダに、はそれはそれは嬉しそうに笑って了承の意を示した。
彼女が笑えば、カナダも嬉しくなる。
そしてカナダが嬉しそうに笑えば、もさらに笑みを深める。
なんだか、あったかいな。――カナダはいつも思う。
ずっとこうしてと笑っていられたらいい、と。
陽が暮れる頃、仕事から帰ったイギリスがリビングに足を踏み入れると、寄り添うように眠る二人の姿。
の手元から読み途中の写真集を引き抜き、さらりと頭を撫でる。
その隣で眠る青年にも呆れたように笑うと、起こさないように眼鏡を外してやった。
遊び疲れた猫と犬みたいな奴らだな、とイギリスが思ったのは内緒の話だ。
「カナダが来てるなんて珍しいな」
鼻歌交じりにキッチンで作業している背中にそう声をかければ、フランスがスープの味をみながら振り返る。
「よくアメリカと区別がついたな」
元宗主国のくせに いつも間違えるイギリスを揶揄ってそう言ってみたが、イギリスは別段気にした様子もなく「の雰囲気が違うからな」と答え、足元に擦り寄ってきた黒い子猫を抱き上げた。
「はカナダのこと、猫っ可愛がりしてるからなぁ」
それにコモンウェルスの一員ということもあり、かなりの信頼を寄せている。そういうところがアメリカとの扱いに差を生じている一因だ。
「お姫様たちはまだ夢の世界か?」
「起こさなきゃ、明日の朝まで寝てるんじゃないか?」
皿に盛り付けられた料理をつまみ食いするイギリスに、フランスが追い払うように手を振る。
「もう出来上がるから我慢しろよ。紳士が聞いて呆れるぞ」
「うるせぇ、ヒゲ」
相変わらず口が悪いな、とぼやきながらフランスは鍋の火を止めた。
「ほら、もう食えるからとカナダを起こしてこいよ」
カーテンの向こう、今宵ロンドンの夜空には数多の星が瞬いていた。
(『散文御題』 Title by 黎明アリア)