眠れぬ夜の寝物語
足音に気をつけて、目の前で寝ている少女に近付く。
澄んだアクアマリンの瞳で向けられる きつい眼差しも、愛らしい声で告げる きつい口調も。
今は鳴りを潜めていた。
ぺたぺた、とちいさな足音を連れては夜の廊下を歩いていた。
この時間帯はクローバーの塔が眠りに落ちるので、誰もいなくなった廊下は最小限の灯りしか灯されてはいない。
ぺたぺたと歩いていくと、閉ざされた扉の向こうから わずかに届く灯りがあった。
第一資料庫だ。
扉の前での足が止まる。
―――こんな時間まで仕事熱心ね。
誰だろう、とは思わなかった。この部屋に保管されている資料は重要度の高いものばかりだから、立ち入ることができる者も限られてくる。
の見つめる目の前で、音もなく扉が開かれた。
はたして現れたのは、背の高い黒髪の青年。
の苦手な金の瞳は、光量が乏しいため、今はその色を暗く落としている。
彼が片手で押さえる扉を見て、自分ではこれほど簡単には開けられないのに、という考えが頭の片隅を過ぎった。
「―――、様……?」
開いた扉の向こうに立つ少女に、グレイは驚きを宿してその姿を見つめた。
グレイが第一資料庫で資料を探していると、誰かが部屋の前に立つ気配を感じた。
最初は急を要する事態かと思ったが、いつまで経っても声のかかる様子がない。不審に思って扉を開けてみたら、薄暗い廊下には金の髪の少女が立っていたのだ。
その光色の金の髪も、いつもより幾分暗い色を帯びている。
「こんな時間に、どうかしましたか?」
この時間帯に殆どの者が眠っていることは、少女も承知しているはずだ。
現にも、薄水色のパフスリーブワンピースに白のストールをかけていて、常とは装いが違っている。
かけられた声に、少女の瞳がグレイを見上げた。アクアマリンの瞳が静かに瞬いて、さり気なくグレイとの距離をとった。
その距離は1メートルほど。いつもは2メートルまでしか許されていないので、それを思えば近いくらいだ。
「様」
「な、に」
「どうかしましたか?」
「別に。どうもしていないわ」
「何か用事でも?」
「……別に」
は持っていたウサギのぬいぐるみを両腕に抱えて一歩下がる。
それを見たグレイは、問い詰めすぎたか、と思った。未だこの少女の扱いに慣れない。
「…………」
「…………」
じり、と少女がさらに一歩下がった。
グレイの視線が自然とその足元に向けられる。そして、少女の白い素足に眉を顰めた。
「年頃の女性が素足で歩くのは感心しませんよ」
「いいじゃない」
「怪我をしたら危ないでしょう。それに……」
他にも言いたいことはあったが、グレイは飲み込んだ。がさらに一歩、後ずさったからだ。
グレイの瞳から視線を外さずに後ずさる様子は、警戒心の強い猫そのもの。
甘えるのが苦手な少女は、他人からの干渉も苦手なのかもしれない。対処に困ると逃げの姿勢になるのは、最近わかったことだ。
グレイは軽く呼吸をして、気持ちの整理をした。
「―――特に用事がなければ休まれていきませんか。すぐにメイドに紅茶を用意させます」
「寄ってもいいけど、紅茶はいらない」
呟くように答えたに、グレイは目を丸くした。
「なに?」
「いえ」
少女とは毎回、こんなやり取りをしているような気がする。そう思いながら、を部屋の中へと招き入れ、ソファへと促した。
少女はいらないと言ったが、やはりメイドを呼んで紅茶を用意させようか。それから足を拭くタオルと靴も。
そんなことを考えていたグレイの心中を読んだのか、が不機嫌そうな顔をした。
「わざわざ寝ているのに起こす必要ないでしょ」
「……貴女は読心の能力があるんですか?」
「ナイトメアじゃあるまいし、そんなことできないわよ」
ナイトメアの名を出した時に少しだけ、は憂いの表情を浮かべたようだった。
「こんな時間に仕事だなんて、ずいぶん熱心なのね」
「気になる案件がありましたので。過去に類似資料があるのではないかと」
しつこく構って少女が逃げてしまっても つまらないので、グレイはおとなしく作業に戻った。
は持っていたウサギのぬいぐるみの背から、ポットを取り出してカップに中身を注いでいる。
ふわり、と香ったのは紅茶の香りだった。
「飲む?」と問われたが、グレイは首を横に振った。
「……どんな資料?」
少女から話しかけてくる様子を物珍しく思いながら探している内容を伝えると、ぺたり、と少女の素足が床につけられた。
ぺたぺたと軽い音をたててグレイの脇を通り抜け、奥の棚へと向かう。何事かとその背を追ったグレイなど見向きもしないで、が棚から数冊の資料を取り出した。
「これでしょ」
ぞんざいに差し出された資料。それらを受け取ると、グレイは中を確認した。
「―――ありがとうございます」
少女はすでにソファに戻って、カップに口をつけている。
「ひょっとして、此処にある資料を全て把握しているんですか?」
「此処の資料を整理したのは私だもの。全てを把握してるわけじゃないけど、カテゴリーくらいは承知してる」
はこう言ったが、迷いなく資料を出してきたところを見ると、おそらく把握しているのだろう。
ここ最近で知った少女の有能さに、グレイは舌を巻いた。
「―――私とお茶を飲んでたから?」
ぽつりと呟かれた少女の言葉。
グレイは何をさしてそう言われたのか、わからずに聞き返した。
「なんのことですか?」
「今時分、仕事をしてるのは……私とお茶をしたせい?」
カップを見つめていたアクアマリンの瞳が、窺うようにグレイを見上げる。
その様子にグレイは目を瞠った。ずいぶんと可愛らしい心配をされたものだ。
「いえ、違います。この書類はその後に持ってこられたものですから」
グレイが穏やかな笑みを浮かべて少女の言葉を否定すると、は ほっとした表情でカップに口をつけた。
いつもは不機嫌だったり警戒していたり、そんな態度しか見せない少女なので、安堵した表情というのは初めて見る。
少女は人見知りが強いのだと以前ナイトメアが言っていたが、グレイに慣れてきたのだろうか。
それともナイトメアが不在で心細いから、グレイへの態度も軟化しているのだろうか。
―――いまいち、わからないな。
やはり、この少女は判じ難い。
資料を開いたまま考え込んでいたグレイの耳に、控えめな欠伸が届いた。
気付いて顔を上げると、アクアマリンの瞳がうつらうつらしている。
「様?」
「なに?」
答える声も、どこかぼんやりとしている。
「眠いのでしたら、部屋に戻った方がいいですよ」
「別に、眠くないもの」
見るからに眠そうな、というより、すでに半分夢の世界にいる少女は、それでも眠くないと主張する。
肘掛にもたれかかるが眠ってしまうのは、時間の問題だろう。
しかし、グレイがため息をついて室内の灯りを落とすと、少女がそれを咎めた。
「暗く、しないで」
「明るいと眠り難いのでは?」
「暗くすると、眠くなっちゃうから」
暗くなくても眠ってしまうのでは、とグレイは思ったが黙っておいた。
ひょっとすると、暗いのが苦手なのかもしれない。
―――それはないか。此処までの廊下もだいぶ薄暗かったが、彼女が怖がっている様子はなかった。
瞼を閉じたままで、は呟くように話す。
「嫌な夢を、見るの。だから、眠るのは――」
囁きにも似た ちいさな声は、夜に溶けるように消えていった。
「様――」
グレイはそっと呼びかける。
足音に気をつけて、目の前で寝ている少女に近付く。
澄んだアクアマリンの瞳で向けられる きつい眼差しも、愛らしい声で告げる きつい口調も。
今は鳴りを潜めている。
「安心されるのは嬉しいが」
ソファの傍らに片膝をつく。
頬にかかる金の髪を、指先でそっと払った。
「安全な男だと思われるのは困るな」
無垢な顔で眠り続けるクローバーのお姫様に、グレイは苦笑した。